78 / 833
14.二人の歯科検診(2)
――それから数日後。
あらかじめ、今日を選んで検診の予約をしておいた俺は、定時前に早退させてもらう事にした。
本当は定時上がりからの来院を希望していたのだが、歯科医院とのすり合わせの結果、検診なら予約は五時にしてくれと頼まれたのである。
そして、現在の時刻は午後四時。
上司には事前に相談を済ませ、了承を得ていたので、後は帰ることを伝えるだけだ。
しかし、いかに理由があっての早退とはいえ、定時前に退社するのを堂々と宣言するのは、さすがに引け目を感じるなぁ。
さらに、これから報告を行う上司は俺が所属する営業第一課の長、鬼のシゴキでその名を轟かせている権藤 課長だ。
いざとなったら何を言われるか分からない。
状況によっては翻意 されるおそれがあるだけに、否が応にも緊張が高まるのである。
くれぐれも、言葉選びだけは間違ってはいけない。
「課長。お忙しいところ失礼します。少々よろしいでしょうか」
「柚月 か。いいよ」
課長は机に向かったまま、黙々と書類にハンコをついている。
この人は顔を見なくても、どの部下が話しかけてきたのかは、声だけで判別できる能力を持っているのだった。
「先日ご相談させていただいた、うちの子の歯科検診の件なんですが――」
「今日だったっけ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心臓にピリッと電気が走った。
今の返事には二つの意味があって、そのどちらのつもりで言ったのかが分からないのだ。
まず一つは、課長はミオの検診が今日だという事を覚えていたから、念のための確認として聞き返した。
これならばまぁいい。
だが、もう一つは最悪のケースだ。
今日が検診の日だという事を覚えていなかった、という意味で発言した場合、次にはこういう言葉が並ぶかも知れない。
「今日だったとは聞いてないぞ」
「そんなに急に『帰る』とか言い出して、OKが出ると思ってるのか?」
「お前、周りを見てみろ。早退したいと思っている奴なんて一人もいないぞ」
など。
つまり、事前に書面で提出した早退届けを一方的に反故 にされるパターンだ。
そんな適当な人間に課長が務まるとは到底思えないが、俺はまだこの人の全てを知っているわけではない。
だからこそ、今の言葉に対して、すぐには答えられなかったのである。
しばしの沈黙の後。俺はゴクリと唾を飲み込み、絞り出すように返事をした。
「はい、今日です。五時に予約を取りました」
「分かった。行ってやりな」
とだけ言うと、課長は処理が終わった書類の山をかき集め、机でトンと叩いて揃えた。
相変わらず、その視線は机の方を向いたままである。
よかった、さっきの言葉の真意は前者寄りだったようだ。
「ありがとうございます! それでは、お先に失礼します」
「おう。あと柚月、分かってるとは思うけど」
「はっ」
「埋め合わせは、後日ちゃんとしとけよ」
「……承知しました」
しっかりと釘を刺されてしまったが、それ以上何もお小言をもらわなかったのは、きっと、俺に信頼を寄せていてくれるからだろう。
と、ポジティブな方へ解釈する事にした。
ほんの少しの時間と会話だったけど、ものすごく精神をすり減らされた感じがする。
さすがは鬼の権藤課長、威圧感が半端ではない。
俺は極度の緊張による額の汗を拭い、会社を後にした。
ともだちにシェアしよう!