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47.ひと騒動(4)
「どう? お兄ちゃん」
「うーむ。こうして間近で見てみると、親父の言う通り、ヤブ蚊で間違いないっぽいのかなぁ。ブヨは皮膚を噛み切るから、傷口が一目で分かるんだけど、ミオのはそんな痕じゃないし……」
「だーから、ブヨなんかいないって言っただろ」
ほとほと呆れた様子の親父が、自らの手で叩き潰したヤブ蚊の死骸を処分すると、俺の隣に並んでかがみ込み、ミオの太ももに目を凝らし始めた。
「確かに、ほんの二、三ミリくらいの赤みが円状になってはいるけど、義弘よ。お前、これをブヨの仕業だと思い込んだのか?」
「う。だって、今は痒みがないって聞いたから、もしやと思ってさぁ」
「バカタレ。中途半端に知識をつけておいて、ここがブヨの仕業かどうかを、しっかり確認しない奴があるか。親のお前がそんな体たらくじゃあ、ただただミオくんが不安になるだけだろうが」
「め、面目ない……」
終始冷静な親父によるお叱りの一言一句に対して、申し開きをする余地はなかった。赤みを帯びた部分が「モヤモヤする」というミオの表現を曲解した俺のせいで、ブヨの仕業ではないかと思い込ませてしまいそうになったのだから。
「お父さん、あんまり義弘を叱らないであげて。わたしのせいでもあるんだから」
「分かってるよ。今のはちょいと、お灸を据えただけだ。とにかく、この痕はブヨのせいじゃないと分かったんだし、早くミオくんに薬を塗ってあげなさい。救急箱に、ヤブ蚊用のよく効く薬があったろ」
「ええ、これね」
救急箱から、何種類かの塗り薬を持ってきていたお袋は、まるで歯磨き粉か何かと見紛うほどの、大きなチューブを俺に手渡した。
この薬は老舗の製薬会社が作っていて、ヤブ蚊に血を吸われた痕が引き起こす、痒みや腫れをたちまち沈めてしまう、定番の塗り薬だ。
俺の少年時代も、よく山へ遊びに行って、そのつど蚊に刺されまくった時には、お袋から、「絶対に掻いちゃダメよ」と釘を刺された上で、この薬を塗ってもらったっけな。
「ミオ。今までに、ヤブ蚊に刺されたことは?」
「いっぱいあるよー。施設の皆で山登りの遠足に行った時、手とか足を刺されたんだけど『掻いたら傷跡が残る』って言われて、ずっと我慢してたの」
「偉いわね、ミオちゃん。ほんとに辛抱強い子だわ」
「ミオ、頑張ったね。その辛抱強さのお陰で、幾度となくヤブ蚊に刺されても、体には目立つような痕が全く残ってないんだし。症状も痒いだけで済んできたのなら、アレルギーの心配は要らないのかな」
という俺の、最後の問いかけに対し、首を縦に振らなかった親父とお袋を見る限り、どうやらまだ何か、気になる事が残っているらしい。
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