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52.夏の終わりに(16)

 ――ところで。  ミオが学んだ万有引力に、「とある人物による補足」を加えると、より一層引力の説得力が増す。ただ、情報が増えれば増えるほど、ミオやお袋が混乱をきたしかねないので、あえて説明に加えなかった。  その補足というのが、古代ギリシャで著名だった学者、アリストテレスによる『自然学』にまつわる話だ。  紀元前三百年ごろを生きたアリストテレスは、恐妻家として有名なソクラテスの孫弟子にあたる。彼が唱えた自然学の『四元素説』では、水・土・火・空気を「元素」と呼び、各々の元素には、冷・熱といった『四性質』が関わるものと考えていた。  それらを全て紹介するとキリがないので省略するが、例えば水は低きに流れていくし、その手ですくい上げて持った土も、手をひっくり返せば地面に落ちる。  だいぶ端折(はしょ)ったが、要するに、アリストテレスは紀元前という大昔にて、土と水には引力が作用する事に気付いていたフシがあるのだ。  それをハッキリ「引力」であると言及した記録こそ残っていないが、アリストテレスの自然学が後年まで語り継がれた結果、アイザック・ニュートンが万有引力を発見するヒントにはなったかも知れない。  ……という補足を、俺はあえて控えた。混乱を防ぐためでもあるが、何より「ニュートンは、アリストテレスを知っていたか否か」を証明する資料がない。どちらともつかぬ上で説明するのは、憶測でものを語る事になるので、そこに真実はカケラもない。  調べた事柄の正確さや、最低限、その説が最も有力であるという裏取りができない限り、おいそれと口にしてはいけない。  お袋はともかく、ミオはまだ十歳であるがゆえに、水を吸収するするスポンジのごとく柔軟な頭を持つ。だからこそ、説明、あるいは解説をするに当たり、その情報の真贋《しんがん》には、細心の注意を払わなくてはならないのである。  史実の三国志を語る際、「実は、『全身肝である』と褒め称えられた趙雲子龍(ちょううんしりゅう)は女性で、呂布の子を孕んでいた!」などと適当こいたら、それこそドえらい事になるので。 「ミオの言う通り、地球では引力が働くから、実は宇宙ステーションも、その引力で引っ張られているんだよ」 「そうなの? じゃあ、そのうち宇宙ステーションも落ちてきちゃうの? 怖いよぉ」  よほど不安になったのか、ミオは俺の右腕をより一層強く抱き締め、何かをお願いするかのように見つめてきた。  宇宙ステーションが地上に落下して、自分よりも、仕事中の俺が押しつぶされる方が怖いという、そんなニュアンスを含んだ風に聞こえた。きっと、俺に「死なないで!」と伝えたいのだろう。  一時期は、そういう隕石衝突の危機を題材にしたパニック映画が流行ったなぁ。 「大丈夫だよ。万が一、そんな事が起きたとしても、絶対にミオのそばを離れないから。一緒にいるって約束しただろ?」 「うん……ありがとね、お兄ちゃん」  ミオは安堵(あんど)の表情を見せた後、抱きついた俺の腕に顔をうずめ、「大好きだよ」とささやいた。いくらお袋の前だとはいえ、愛の言葉を大っぴらに聞かれるのは、まだちょっと恥ずかしいんだと思う。

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