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52.夏の終わりに(20)

 その昔。ろくに働きもせず、日がな読書にふけっている呂尚(りょしょう)という旦那の嫁は、甲斐性なしの彼を見限って離婚した。  しかし、別れた元旦那が後に、(しゅう)の武王により、(せい)という封土……つまり周の領地を国として分与され、大出世を果たした事を知るや、元嫁は呂尚のもとへ訪れ、復縁を迫って来たのである。  その元嫁による、露骨な図々しさを目の当たりにした呂尚はほとほと呆れ返ったのか、容器に注いだ水を持ってきてひっくり返し、こう言って復縁の申し出を拒否したそうだ。 「俺が今、床一面にぶち撒けた水を、お前は全て盆(容器のこと)に戻せるか? 無理だろ? つまり、俺たちの関係はそういう事なんだよ」  かなり現代風にアレンジしてしまったが、呂尚が言った事は、概ねこんな内容だったらしい。一説では、元嫁は床一面に広がる水を盆に戻そうと試みたが、結局土ばかりを掘り起こし、水の一滴もすくう事はできなかったとも伝わっている。それが実話なら、さぞかし無様な光景だったんだろうな。  ただ、である。今しがた例に挙げた覆水の話は、何しろ紀元前千年以上前の逸話が出典なので、必ずしも実話かどうかの証明はできないし、一言一句間違わずに再現するのも不可能だ。  が、後に故事として記録が残り、口伝で語り継がれ、今日にまで使われ続けているのは(まぎ)れもない事実である。盆の中身が水だろうがお茶だろうが、酒であろうが結果は同じこと。  といった諺に反するように、「覆水しない」のが、この遠心力の働きだ。もしも呂尚の元嫁がバケツと水を持って反証したら、歴史は変わっていたかも知れない……わけないか。何しろ遠心力の発見は、この時から、およそ二千八百年も後の話だからな。 「でもお兄ちゃん。バケツのお水が引っ張られてるのは分かったけど、人工衛星も同じなの?」 「そうだよ。あんなに大きい機械の塊が地球の周りをぐるぐる回っていられるのは、人工衛星に働く引力と遠心力が釣り合っているからなんだね」 「じゃあ、さっきお兄ちゃんが言った、『人工衛星はずっと落ち続けてる』のは引力の仕業だけど、遠心力のおかげで浮いていられるってこと?」 「お。なかなか飲み込みが早いじゃん。例えばさ、俺が地球の外に立って、野球のボールを投げるとする。あくまで例えだぞ」 「うん」 「その俺が時速百キロのスローボールとか、百五十キロの豪速球を投げたとしても、地球に引力がある限り、いずれも落ちてしまうんだよ。なぜなら、さっき見せたバケツの水を使った実験みたいに、引力と遠心力のバランスが取れていないからね」  まぁ、現代のプロ野球で時速百五十キロの直球と言っても、さほど豪速球じゃなくなってきているんだよな。でもその話をしたら、また本題から離れて、説明する事柄が増えちまうかも知れないから、あえて黙っておいた。

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