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52.夏の終わりに(21)

「なるほどー。じゃあ、人工衛星は引力と遠心力が同じくらいのバラスだから、落ちなくて済んでるの?」 「その通りだよ。ちなみに『バランス』ね。間に『ン』が入るから」  横文字に弱いミオは、こういう短い単語においても、覚え違いを起こす事がたまにある。  もっとも、そのつど訂正を挟む事で、ミオの頭脳に蓄えられた情報や知識は上書き、つまりアップデートされていくらしい。実際、同じ横文字の単語を口にするのが二度目の場合において、この子が再度間違った例を俺は知らないし、記憶にもない。 「ただその場に打ち上げただけじゃ、衛星は引力に従ってそのまま落ちるんだけど、猛スピードで移動させると、引力と遠心力の釣り合いが取れたまま、地球上を回っていられるって仕組みなんだ」 「もうすぴーど?」  俺と一緒に、縁側に腰を掛け直したミオが首を傾げて聞き返してくる。 「うん。ものっすごく速いスピードの事を、〝猛〟という漢字を付けて言い表すんだよ。まぁ、どこからどこまでが猛スピードなのかの決まり事は無いんだけどね」 「じゃ、人工衛星は何キロくらいの速さなの?」 「んーとな。確か秒速で表すと、七・九キロくらいだったと思うよ」 「え? たったそれだけなの? カール・ルイスはもっと速く走ってたのに?」  どうしてミオが、短距離走、走り幅跳びで数々の栄光を欲しいままにした、カール・ルイスの事を知っているのか分からないが、確かにルイスの方が速い。何しろ彼は、原付バイクの法定速度である、時速三十キロを上回る速さで百メートルを駆け抜けたのだから。 「カール・ルイスは確かに速いけど、さっき話した通り、人工衛星の場合はなんだよ」 「秒速? 一秒ごとにってこと?」 「そう。人工衛星が地球の引力に引っ張られずに周回するためには、秒速およそ七・九キロ……つまり、時速二万八千キロくらいの移動速度が必要になるってわけだな」 「えー、そんなに速いの!?」  人工衛星とカール・ルイスを対比していたミオは、人工衛星が、いかにとんでもない速度で周回しているのかを知るや、即座に目を丸くした。 「まぁ驚くよなぁ。マッハの世界記録すら超越しているんだからさ。で、その関係をバケツと水で例えるなら、さっきみたいに勢いよく回してりゃ、水はこぼれなくて済むだろ?」 「うんうん。不思議なくらいにこぼれなかったねー」 「でも、この水バケツをゆるーく回そうとしたら、引力が遠心力に勝るから、逆さまになる前に、バシャっといっちゃうんだよ。つまり落下するって事だね」 「じゃあ、中のお水は人工衛星ってこと?」 「そう。俺の腕を地球に見立てると、バケツの底に働く遠心力でもって、中の水……この場合は人工衛星が、常に働く引力に負けないで、地球の外側を回っていられるのさ」 「ふーん。でもお兄ちゃん。引力の方は分かったけど、遠心力の方が強かったら、人工衛星はどうなるの?」 「ええ? その質問はさすがに想定してなかったな。……要するに、『もしも人工衛星の移動速度が、引力と釣り合わないほどに速くなった場合は?』って事だろ?」 「うん。教えて教えてー」  参ったなぁ、この子の知識欲は底なしか。

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