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54.完全決着(8)

「課長、ご厚意痛み入ります。今日の埋め合わせは、近いうちに必ず――」 「それ以上言うな。お前の子は重荷ではない。実子であろうがなかろうが、必ず幸せにすると覚悟を決めた以上、この早退をためらう事は私が許さんぞ」 「柚月。仕事の件ならオレに任せといてくれや。あの外道が起こした騒動の決着がついたら、課長も含めた三人でお祝いしようやないか。ええ店知っとるさけぇ、うまいケーキを買うてきたる」 「ほう? それは見ものだな、佐藤。私の好みを当てられたら、冬の賞与に色を付けてやってもいいぞ」 「ホ、ホンマですか!? ………でも、外した場合は?」 「その日だけ三時の抜きだ」  思ったよりも軽いペナルティで済んだ事に安堵(あんど)したらしく、佐藤はホッと胸を撫で下ろした。というか、来たるお祝いの日はこの三人でケーキを食うんだから、おやつ要らないじゃん。実質ノーペナだよ。  たまにこういう茶目っ気のあるところを見せてくれるから、俺も佐藤も、課長の下で楽しく働けるんだろうな。  でも、権藤課長が好むケーキを当てられただけで、冬のボーナスにどう色が付くんだろう。査定に手心を加えるとか?  当てられさえすれば、俺のボーナスにも色が付くチャンスはあるかも? なんて野望はよぎったが、今、最も優先すべきはミオの健康状態を確認する事だ。俺は課長と佐藤に深々と頭を下げると、早足で会社を後にした。     * 「ただいま。ミオ、大丈夫か!?」 「ほぇ?」  いつも通り、玄関まで俺を出迎えに来たミオは、やたら目がショボショボしていた。俺のTシャツを着ていた理由が寝ぼけたゆえか何なのかはともかく、大いに余った身丈でショートパンツが隠れ、生足だけが露出している。  ……いろんな想像をかき立ててしまいそうな格好だが、とにかく大事には至らなかったようホッとした。当のミオは、つい先ほどまで熟睡していたからか、まだ現状の把握ができていないらしい。 「お帰りなさい、お兄ちゃん。今日は早かったんだねー」 「もう起き上がっても大丈夫なのかい? ミオが早退したって電話がきたから、どこか悪いなら、お医者さんに診てもらおうと思ってね」 「だいじょぶだよ。保健室の先生から、『軽いゴウケツだけど、大事をとってお家で休みなさい』って言われて、さっきまでウサちゃんと寝てたの」  はい? 〝軽い豪傑〟? 何かの暗喩(メタファー)か? 「ちょ、ちょっと難しい言葉だね。具体的にどんな感じだったんだい? 体調が良くないとは聞いたんだけど」 「んーとね。体育の授業が終わった後に、目の前がフラフラしちゃったの。今日の体育はいっぱい走って、いっぱい汗をかいたから、そのせいかもねって先生が言ってたよー」 「フラフラの原因がいっぱい汗をかいた? ……もしかして、保健室の先生が言ったのは〝貧血《ひんけつ》〟じゃないかな」 「そうなの? じゃあ、ゴウケツって何だろ?」  それは俺が一番知りたいんだが、単純に、「貧血」と「豪傑」を混同しただけなんだろうとは思う。この子の場合、耳慣れない言葉は、自分が知っている近い言葉に変換して覚えるからな。 「まぁ、詳しい話はお部屋の中でしよう。俺が抱っこして連れてってあげるから」 「うん、ありがと! お兄ちゃんの抱っこ、大好きだよー」  もう、たまらんなぁ。そんな事言われたら、確実に惚れちゃうじゃないか。というか、既に惚れているからこそ、こうして恋人同士にまで発展したんだけれども。 「ミオ、体育の授業でいっぱい汗をかいたんだろ? それがフラフラの原因っぽいから、たぶん〝スポーツ貧血〟になったんじゃないかな」 「スポーツ貧血? なぁにそれ?」 「そうだなぁ。簡単に説明すると、今日みたいな暑さでたくさん走った日は、その分だけ汗をかくだろ?」 「うん」 「で、その汗と一緒に、鉄分っていうミネ……もとい、栄養分の一つが出て行っちゃう仕組みになっててね。体の中の鉄分が少なすぎると、今日みたいな貧血が起きるんだよ」 「鉄分って、砂鉄とかの鉄?」 「まぁ一応は。でも、たくさん汗をかいたからって、砂鉄は食べちゃダメだよ。バナナとか納豆とか、ミオが好きな魚の料理なんかは、鉄分の補給にはてき面なんだけどな」  とは言ったものの、体育の授業に備えてバナナやら刺し身やら、納豆やらを持ち込ませるのはなぁ。小学生のミオにサプリメントを摂取させるにしても、適量が分からない。  そもそもミオは、普段から貧血を起こすような体質の子ではない。まだ残暑が厳しい中、しこたま走らせる事で生じるリスクを考えると、熱中症に注意を払うだけでは足りない、という証明にはなったわけだ。  だいたい、体内の鉄分が欠乏するほど大量に汗をかかせるって何なんだよ。こんなくそ暑い時期に。毎日ミオに持たせている、水筒の麦茶だけでは不足分が補えなかったんじゃないのか?  もし、先生が(いにしえ)のスポ根漫画に影響を受けて無理を強いたのだとしたら、生徒である子供たちは、夢見がちな大人が抱いたファンタジーの被害者にしかなれない。それがどれほど危険な事なのか、理解できない歳ではないだろうに。

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