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54.完全決着(9)

「ミオ。体育の先生は担任の先生だったの?」 「んーん、違う人だったよ。先生の知り合いで、元野球部の監督だっておじいさんが来て、いきなり『走り込みが足りない』って言い出したの」 「ハァ!? まだ、そんな面倒臭いじいさんが健在だったのか。さぞかし疲れただろ」  ソファーに寝かせたミオを(ねぎら)うべく、頭をナデナデし始めると、爽やかなブルーの髪が、ほんのり湿気を帯びていた。たぶん、体育でかかされた汗を流すべく、シャワーを浴びたんだろう。  しかし、(くだん)のじいさんが今後もしゃしゃり出て来るようでは、他の子供たちの生命までもが(おびや)かされかねない。走り込みにしか「体育」の意義を見出せない石頭には、早々にご退場いただかなければ。  結局、ミオが訴えた体調不良の原因は、課長や佐藤の推測である「心因性によるもの」じゃなくて良かった……なんて胸を撫で下ろせる段階ではない。ただ、いたずらに悩みのタネを増やされただけだ。  担任の先生は、何をもってそんなジジイを招き入れたんだ? 意図するところをどう問い確かめようかと考えていたら、ミオのクラスメートである、女の子の保護者から電話がきた。 「初めまして。ミオさんと同じクラスで仲良くしていただいている、池田樹里(いけだじゅり)の母です。突然のお電話ですみません。ウチの子から、ミオさんが体調不良で早退したと聞いたので――」 「どうも、初めまして。ミオの保護者で柚月と申します。僕も先ほど帰宅したばかりなんですが、今のところは状態も安定しているようです。わざわざお電話まで頂戴して、お気遣い痛み入ります」 「いーえ。そんなにかしこまらないてください。ウチの娘もあれから疲れを訴えて、ぐったりしたままだから、授業にならないって帰されたんですよ」  あくまで電話だから表情は読み取れないが、その声や口調から、怒りを抑え込んでいるという事は分かる。我が子が早退させられた理由は学校の授業による体調不良であるのに、帰してやるという恩着せがましさが(しゃく)に障ったのだろう。 「そうだったんですか、お互い、何事もなければいいんですけど。うちの子から聞いた話からの推測でしかないですが、汗をかきすぎて、軽い貧血を起こしたっぽいですね。今は大事を取って寝かせていますけど、次もこうなら、体育の欠席もやむ無しかと」  という俺の決意に何ら異論を唱えず、全面的に同意してくれた池田さん。その心情を(おもんばか)るに、他の保護者たちも、(くだん)の走り込みには異様なものを感じたらしい。  その抗議への決意をより固くしたのが、ミオのような貧血に加え、脱水症状に陥った子や、熱中症でダウンして、救急車で運ばれた子が多く出てしまった事だ。  辛うじて無事だった子らの証言によると、こんな惨状を招いた原因は、「運動中に水を飲んだら疲れる」というジジイが唱えた謎の理論による。走り込みを強要される間は、水分などの補給を禁じられたので、限界を迎え、その場に崩れ落ちる子までいたらしい。 「なるほど。やっぱり行き過ぎた指導が原因なんですね。さすがに、子供たちを熱中症にまで追い込むようなやり方には、抗議せざるを得ないと僕も思います。あまりにも旧時代的と言うか、何と言うか――」 「キュージダイテキ? 誰かを抱くお話?」  電話中に配慮して、小声で尋ねるミオに微笑みかけ、俺は軽く首を振った。恋人である俺ならまだしも、どこの馬の骨とも知れないジジイに、ミオを抱かせるわけにはいかない。  夏休みが終わったと言えど、まだ九月の上旬。残暑が厳しい環境のもとで、子供たちが引き起こす脱水症状と熱中症の主な原因は、いずれも、水分などの補給を怠ったか、あるいは禁止された事による。  特に熱中症は深刻で、日差しの強さだけが原因ではなく、悪条件が揃ってしまうと、室内にいても普通にかかる。蒸し風呂と化した酷暑の部屋において、命を守るためのエアコンを嫌った老人の死因がだいたいこれだ。  国内でも指折り数えるほど大きな製鉄所では、灼熱の溶鉱炉で働き続けるため、こまめに水を飲んだり、塩を手に取って舐めたりするそうだ。つまり熱中症の対策には、単純に水分だけ補給してもなお足りないのである。  それを考慮した上で、俺はミオの水筒に麦茶を詰め、塩飴もいくつか持たせているんだが、今日だけは一切消費させてもらえなかった。  働き盛りの大人ですら対策を取っているのに、個人の体質も千差万別であるのに、当該ジジイは自分の人生経験こそが最適解だと信じ続けた。その結果として本日の惨状を招いたので、極論すると虐待行為に等しい。  気合や根性といった精神論で貧血・脱水症状・熱中症を克服できるのなら、ハナから経口補水液なんか製造されないし、溶鉱炉でも塩を舐めたりはしない。  試しに、フルマラソンで世界一を競うアスリートたちに、「運動中に水を飲んだら疲れる」と言って、専用のドリンクを取り上げてみたらどうだろう。  たぶん競技そっちのけで、アスリートやコーチたちから袋叩きにされるだろうが、そのくらい痛い目に遭わないと、ジジイは考えを改めそうにない。

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