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54.完全決着(22)

「それはつまり、脱水症状と熱中症のリスクは考慮に入れず指導したということになりませんか? その主張でいいんですね?」  かなり怒気のこもった声色だが、質問をぶつけた保護者のお父さんは、つとめて冷静に物事の本質を明らかにしようとしている。  にもかかわらず、総白髪で短髪のジイさんは、面倒くさそうな表情を隠そうとはしない。その態度がさらなる憎悪を買っているのに、ただ自覚がないだけで、こうまで人を無敵にするのか。 「まーその、短い時間の指導になりますので。日射病(にっしゃびょう)に関しては、学校から支給された紅白帽で予防できるものと判断した上で、安全確保には配慮したものだと――」  ああ、もうダメだ。この場にいる保護者全員の逆鱗に触れてしまった。配信の音量下げよっと。 「あなた、話を聞いていたんですか!? こっちは脱水症状と熱中症の話をしているんですよ! 誰がどこで日射病の名前を出したんですか!!」 「全く質問の回答になっていない! 子供たちの命がかかっているんですよ!!」  案の定、保護者の人らが総立ちで、ジイさんへ怒声を浴びせる結果を招いてしまった。指導法どころか、子供たちが搬送されるに至った病名を間違うなんて、一番やっちゃいけない事なのに。  別にこの無責任ジイさんを(かば)い立てするわけではないが、一昔前の炎天下では、確かに「日射病」という名前の病が問題にはなっていた。  では、その日射病とは一体何だったのか? そして「日射病」だと名付けるに至った背景は何だったのか? という疑問が解けなければ、話は先に進まない。  要するに、主に夏場で照りつける太陽光に長時間(さら)され続けるがあまり、体が熱を帯びて顔面が蒼白(そうはく)になったり、めまいを起こしてしまう病気で、気を失った場合、救護が遅れたら普通に人は死ぬ。  ただ、日射病の原因は〝太陽光ありき〟なので、屋内で体調を崩す人には当てはまらない。そこで、日射病と屋内の酷暑によって引き起こす症状の病を全部ひっくるめて、「熱中症」と呼ぶ事に決まり、現在に至るわけだ。  熱射病は熱中症の重症度合いを示す言葉だが、その度合いに一から三までの数字を割り振っているため、病態の名称を告知されてもピンと来ない。  実は、こういう病名の変更はよくあるのだが、その決定と公示を知らない人は割と多い。例えば、精神障害の一種である「精神分裂病」は、「統合失調症」へと変わって久しい。  今でこそ「認知症」で統一された脳の記憶障害も、かつては「痴呆症」や「老人ボケ」、そこから転じて「ボケ老人」などと呼ばれ、差別的に用いられる事が多かった。  ボケ老人は論外として、自分やその家族、あるいは親族、友人などの中に、該当の病にかかった人がいなければ、馴染みがないのも無理はない。  ただ、この精神論ジジイは、曲がりなりにも野球部の監督を務めた指導者である。だからこそ、酷暑の中で練習する事によって付きまとう、病の名前や症状、対策を熟知していなくてはならなかった。教え子の命を預かる立場なら、尚更の事だ。  にもかかわらず、日射病で時間が止まったまま、情報のアップデートを怠っていたので、こうして怒鳴り散らかされているわけだ。まぁ、そんな人を指導員として招いた担任教諭も同罪なんだけども。  ――で。  結局、この説明会では、本来の指導者である担任教諭の「注意義務違反が引き起こした重大事件」という結論に至り、処分は免れなくなった。  学校に何の許可も得ず、授業の指導を民間人に委託した事が問題の本質である以上、「良くて諭旨免職(ゆしめんしょく)」という校長先生の説明に偽りはないだろう。  ミオや同級生の子らの給水を許さず、危険な状態に陥れたジイさんは、最終的に「失礼じゃないか! わたしは善意の第三者だぞ!」と開き直ってしまったのだが、この主張には無理がある。  民法においての「善意」とは、「その事について知らなかった」という意味で用いられる。ジイさんは子供たちの体育指導にガッツリ関わっているので、「善意」どころか、第三者という立場が正しいのかどうかも怪しい。  説明会に詰めかけた保護者や新聞社、およそ十万人もの視聴者が、「自分の指導に過失があった」という言質(げんち)を取っている以上、今更、何も知らなかったと主張しても通るわけがない。おそらく、民事訴訟でこってり絞られるだろう。  はぁ、疲れた。これでようやく、本日二つ目の事件が解決したのか。  ……ただ、今日はまだ、あと一波来そうな予感がするんだよな。もうすぐ夜の十一時だけど、相手はそんな事を気遣うようなタマではない。

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