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55.事後処理(16)

「そ、その件については私がご説明いたします。実は、被害に遭われた生徒さんのご両親たちから、警察に被害届が出されまして。げげ、現在は、二人とも警察署で事情聴取を受けていると考えられます」  まだ動揺が治まらない様子の市教委さんは、喉を鳴らしながらグラスの麦茶を一気に飲み干し、大きく息を吐いた。おそらく、緊張感で口をつく吃音を止めようと思い、麦茶に賭けてみたのだろう。  しゃっくりを止めるんなら話も分かるが、吃音は、突然の大任でビビり倒したゆえに出始めたようだ。で、あるからこそ、麦茶一杯くらいで何とかなるもんなのか、(はなは)だ疑問ではある。 「良かったらもう一杯、お()ぎしましょうか?」 「い、いやいやそんな、もったいない。お心遣い痛み入ります。……で、先程の二人ですが、おそらく『安全配慮義務』と『結果回避可能性』の違反として、法廷で裁きを受けるかと」  法廷で争点になるのが、今しがた市教委の方が話した通りだ。学校の先生は、生徒たちがいかなる環境においても、常に目を見張らせ、健やかに授業を終えるよう気を配る義務が生じる。  しかしこの度の事件では、脱水症状や熱中症・スポーツ貧血にかかるという最悪な結果を招いてしまった。無茶な走り込みを強いたのはジジイだが、そもそもジジイを呼ばなければ惨事は起きなかったのだから、やはり先生の責任も相当重くなる。  警察としては、「何でこのジイさん呼んだの?」という奇怪な行動を動機として聞き取る必要があるのだろう。 「この度の事件においては判決を待たず、別途、我々からの賠償金をお支払いさせていただく事になると思います」 「え。市教委さん自らですか? 先生とご老人からではなく?」 「はい。国公立の学校においては、教諭から賠償金を請求してはならない、という判例が出ておりますので、まず認められないかと」  隣で話を聞いていた教頭先生が、少し苦々しい顔をして、グラスの麦茶に口をつけた。  その理由は、教頭先生の勤め先であり、ミオが通う小学校が「市立」だからだろう。つまり「弊校は」公立の教育機関であるため、たとえ先生に請求しても、似たような過去の裁判における判決、即ち〝判例〟という強い味方によって、先生に賠償金の支払いを求める裁判が意味をなさなくなった。  たぶん教頭先生としては、その判例を盾にして「自分は法に守られている!」などと勘違いする教職員が着任されては、こんな事件が再発しかねないと考えているんじゃないかな。 「い、いささか性急ではありますが、お子様の医療費と、賠償金をご請求いただくための用紙を郵送しますので、良きところでご返送ください。……おそらく」 「おそらく?」  何を言い出すんだ? と思って、対面に座る二人の顔を見比べてみたが、いずれも真一文字に口を結び、苦悶(くもん)の表情を浮かべて言い淀んでいる様子だった。  俺の想像だが、たぶんジジイの被害者で十数人にも上る医療費返還で、莫大な金額が飛んでいくから、「申し訳ないが、賠償金は一律◯◯円でお願いします!」って事を伝えてこいとの指示を受けて我が家に来たんだろう。  ってぇ事は、今回の賠償金は市教委の負担になるから、その金額でもって怒りの矛を収めてもらって来い、という使命を課されたんだな。  くり返しになるが、教職員個人に対する支払いは免除されるため、代わりに払う賠償金も、言うほど景気は良くないはずだ。よって、賠償金(示談金)は一律で増減がつかない事を、一家庭ごとに説明しなきゃいけないらしい。  ジジイが諸悪の根源なんだから、ジジイの個人資産を没収しろよ、では通らないんだろうな。年金ぐらしだったら生きる糧を失ってしまうだろうし。  ――なんてことを考えているうちに、またミオのスマートフォンから通知が来た。俺のシャツを着たミオが、お腹を膨らませた写真に添えた「いっしょににうさちゃんだっこしようね」というメッセージの語尾には、いくつものハートマークが並んでいる。  たぶんミオは、俺のお嫁さんになるため、お腹にウサちゃんを妊娠している〝的な〟既成事実を見せたいんじゃないだろうか。  俺にとっては微笑ましい一枚なんだが、寝室に娯楽がないから暇をもて余してしまって、一刻も早く俺に甘えたくて仕方ないんだろうな。ミオのためにも、できるだけこのお詫び行脚を早く切り上げなくては。

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