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57.鬼と狂犬、狭間に俺(4)

「ほら。こいつがほうじ茶の特級品だよ。ちょっと()いでみるかい?」 「は、はい。じゃあ失礼します」  部長が贈り物に貰ったほうじ茶の茶葉は、外箱を開けた瞬間、その香りが給湯室いっぱいに広がった。ああ、これなら鼻を近付けなくても分かる。(まご)うことなき高級品の茶葉だ。  さすがに、お袋の自家製麦茶とほうじ茶を比べるもんじゃあないが、パッケージの見た目で付加価値を付ける必要がないのは、俺にでも分かる。この(かぐわ)しさだけで説得力は充分だ。 「いやー、凄いですね。いつもは安物しか飲んでいないもので、香りが段違いというか」 「はは、そりゃそうさ。高級品の茶葉に手間暇をかけるのは、(ほう)じる作業工程だけじゃなくてね。まずは、茶葉を育てる土壌づくりから始まるんだ」  ミオならここで、「ドジョウ? お魚さんがお茶に関係あるの?」という天然をかましてくるのだろうが、俺には分かる。茶園に限った話ではないが、高い品質の茶葉を育てるためには良い土、そして良い肥料が欠かせない。 「たとえば野菜がそうであるように、茶葉であっても施肥(せひ)が必要なんだ。最高級の茶葉を育てるためには、植栽する土壌に、何の養分が必要なのかを突き止めなくちゃいけない。それを土壌診断と呼ぶんだね」 「なるほど。そういえば、茶葉は酸性の土を好むと聞いたことがあります。その為の診断でもあるんですよね?」 「ズバリ正解だよ。さすがは〝青峰(せいほう)の雑学王〟だね。何でも知ってるじゃないか」 「え? いやいやそんな。僕なんてもう、聞きかじった豆知識を吸収する事しか取り柄がないもので……」  いくら謙遜しても、部長にその二つ名で呼ばれたら、どうにも否定しがたい。俺が〝青峰の雑学王〟と呼ばれる所以(ゆえん)は、俺が通っていた青峰大学の学祭で、雑学王クイズに優勝したからだ。  でも、たった一回の出場で、そんな大仰に二つ名を付けるもんかねぇ? ミオは進んで質問してくるから、俺も教える甲斐があるけれど、元カノのあいつが聞き耳を立てた例は一度もない。  聞き手に不要だと判断されたら、まず知識として吸収されない。それは雑学だろうが哲学だろうが、宗教学だろうが同じ事だ。 「よし、お湯が沸いたぞ。じゃあ柚月君。すまないが、全員分の湯呑みにお湯を注いでくれるかな?」 「承知しました! だいたい八分目くらいで良いですか?」 「う、うん。さすがは雑学王なだけあって、よく心得ているじゃないか。ひょっとして、自宅でも茶をたしなんでいるのかい?」 「いえいえ。実は幼少の頃から、母の手伝いをしていたもので」 「なるほどな。今の君にこんな説明をしたところで釈迦(しゃか)に説法《せっぽう》かも知れないが、これもおいしいお茶を飲むために必要な工程なんだ。終わったら、冷めるまでちょっと待とう」 「はい」 「釈迦に説法」って、立場が逆じゃないか? ただ雑学に詳しいだけの部下に対して、そこまで買い被る事はないでしょうよ。権藤課長に呼び出しを食らって、ご機嫌ナナメでもおかしくないのに、こうまでベタ褒めされると調子が狂うな。 「そうだ。今のうちに伝えておくよ、柚月君。今日はであがっていいからね」  ……はぇ? 半ドン? まさかの雇用調整(リストラ)か!?

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