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60.商談成立(1)
「ときに柚月 くん。君、魚釣りはやる子か?」
「は……はい。小学生の頃、父親に投げ釣りを教わりまして」
「ほぉ、投げ釣りかいな。初めてにしては、なかなかオモロイ遊びを教えてもろたやないか」
「時期が良かったんだと思います。ちょうど、キス釣りのシーズンだったもので。教わったとおりに仕掛けを遠投できた時は、歓喜で身震いしましたね」
「せやろ。釣り竿をつこうた魚釣りっちゅうのはな、ホメロスがポエムを書いとる時から存在しとったんや。なっがい歴史やで」
「そ、そうだったんですね! 大変勉強になります」
「はっはっは、それが投げ釣りやったとは限らんけどな」
……と、こんな調子で魚釣りの話をしているお相手こそが「関西の釣りを牛耳った男」こと、東条信三郎 その人である。
ウチの会社の大阪支店が仕入れた情報によると、このお方は関西地方にある、ほぼ全ての海釣り施設を複合レジャー施設へと改築し、大成功を収めたアイデアマンなのだそうだ。そんなお方だからこそ、自宅の庭園工事で三億円をポンと出せるほど、たくさんのおカネを持っているのだろう。
本来なら、こうして二人きりで、魚釣りの話に花を咲かせる余裕はないはずだった。なぜなら、東条会長は本日、早朝四時から釣りをする予定だったからだ。その予定をフイにした正体こそが、昨日の夜から、今もなお降り続けている大雨だったのである。
「ホンマはなぁ。今日は府議会議員のセンセとの約束でな、串本 で〝カセ釣り〟をする予定やってん。ちょいちょいお願いせなアカン事が出てきたさかいな」
「それは何とも、運のめぐり合わせが良くなかったというか……」
「なぁ? 今の串本は天然モノの真鯛やら、シマアジやらがよう釣れる時期やゆうのんに、天気っちゅうもんはサッパリ空気を読まへんのや」
東条会長は喋るだけ喋り倒すと、先程、秘書の京堂 さんが運んできたお茶をグイッと飲み干した。
さっきまでは、同行する府議会議員への相談事の一環として釣り接待に行くみたいな事を言っていたのに、実はこの人が一番、真鯛やらシマアジやらを釣りたいんじゃないのか。
そもそも、串本って和歌山県の最南端じゃん。ここ大阪から車を飛ばして、早朝四時に現地で釣りを始めるって、一体いつ寝るつもりだったんだ?
「ところで柚月くん。君、結婚はしとるんか?」
「え!? あの……お恥ずかしい話が、まだ独身なんです。なにぶんにも不器用なもので」
「はっはっ、気にせんでええ。若いうちはそんなもんや。ほんなら柚月くん」
「はい」
「今、ここにおる秘書の京堂くんはどや? 昨日から君の亊、えらい絶賛しとったで。『色んな亊に詳しくて、お話が弾むから楽しかった』言うてな。ひょっとしたら君と合うんちゃうか?」
東条会長の傍 らで話を聞いていた京堂さんは、また始まったよ、みたいな苦笑いを浮かべている。たぶんこの爺さんは、色んな若人 をこのお屋敷に招いては、そのつど京堂さんを紹介しているのだろう。
それだけ俺のことを買ってくれているのだとは思うが、大事な秘書さんを手放すことに、一切の躊躇 いはないのだろうか。というかそもそも、京堂さんほどのお方が、全くのフリーであるとは思えないんだけどな。
俺は俺で、既に、ミオというショタっ娘の婚約者 がいる。昨日のオフレコでは、京堂さんにその事を打ち明けたのだが、どうやら東条会長には内緒にしてくれているようだ。気の良い世話好きな会長には申し訳ないけど、今は商談の成立が最優先だから、上手くいなして本題に入らせてもらおう。
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