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60.商談成立(2)
「まま、会長。僕個人のモテなさで会長のお手を煩 わせるのも勿体ない事ですから、そろそろ〝ご商談〟の方を」
「お、そうか。ええ話やと思うてんけどなぁ」
東条会長はさも残念そうに首を振っているが、この人がどこまで本気なのか分からない。大邸宅の庭をリフォームするために大金を用意して、俺を指名して大阪まで呼びつけたのには、相応の理由 がある。
この商談の機会が巡ってきたのは、府警の副本部長が、泥酔での不祥事が露見することを恐れたがゆえ、己のツテで東条会長を頼ったから……という背景がある。府議会議員に対する接待とて、ただ遊びに行くだけではなかったわけなのは、本人の口から聞かされた通りだ。
そうやって、あらゆる「力」を持った人物とのコネを作り、互助し合う事によって利権を守り、関西の政財界に幅を利かせてきた。それが東条信三郎 という怪物なのである。だからこそ、わざわざ俺なんかのために、大切な美人秘書を嫁に差し出すなど、到底考えにくいのだ。
「まぁ何や、この不景気の折、庭のリフォームに億単位でカネをかけるっちゅうのも、道楽みたいなもんやが。何 しか、ヘタ打った奴が泣きついてきよるさかいにな」
今しがた会長が使った「何しか」は、大阪弁だけに限った用途ではない。この場合は「何しろ」という意味であるため、話の脈絡を正しく理解しないと、会話が成り立たなくなる。
佐藤のような〝チャンポン関西弁使い〟のしゃべりが今、初めて役に立った瞬間かも知れない。何しかあいつは、大阪弁をベースに京都弁や神戸弁、播州弁までが入り混じった強烈な方言を使うもので。
「今日、君に来てもうたんはな。ええ機会やから、わしとこの庭に、〝海水の池〟を作ろうか思ての相談でな。どや、できそうか?」
「か、海水で? それはまた、とても斬新的なアイデアですね。今ある、鯉の飼育を兼ねた池を改造したいというご要望ですか?」
「いや、全くの別モンをこさえるっちゅう話や。海水の池で魚を放流してな、魚釣りができるようにしたいねん。ただ見るより、釣って遊べる方がオモロイやろ」
それは池じゃなくて釣り堀では? という疑問が真っ先に浮かんだが、今はそんな指摘をしている場合ではない。
よくよく話を聞けば、自分の孫を楽しませたい一心から思いついたアイデアなのだそうだ。確かに、飼育と景観を兼ね備えた現有の池で鯉を釣り上げさせるなど、あまりにも節操がない。
こういう夢のある話をウチのミオが聞いたら、きっと目を輝かせて喜ぶだろう。あの子は特に、海のお魚さんが大好きだからね。
とはいえ、海水だからなぁ。その実現性を頭の中で想像してはみたが、塩分濃度や毒素の分解などといった諸問題を、個人宅だけでまかなって解決させるのは大変だ。維持費用だけでも、目が飛び出る額に跳ね上がるぞ。
とりわけ今日みたいな雨の日は、海水の池に棲む魚にとっては致命的だ。入り混じった真水と海水を循環させるのは現実的じゃないし、そのつど海水を汲んで入れ換えるなど、面倒くさいにも程がある。
仮に、池で飼育する魚をチヌやキビレ、スズキ、ハゼみたいな汽水域 でも生息できるものに限定するとしたところで、果たしてどれだけ生き続けられるのやら……。
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