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60.商談成立(3)

「どや? 柚月くん。海水の池造りは実現できそうか?」 「……可能だとは思います。今既にある池の、鯉を飼育する環境に用いた技術が幾つか流用できると思いました。ただ、海水の循環システムとか、飼育できる魚種などが大きな課題ですが」 「課題? どういうこっちゃ?」 「そうですねぇ。では一つ目の課題、水質から詰めていきます。会長、もしも海水の池が完成した折、放流する魚種は決まっておいでですか?」  という質問をぶつけてみたら、東条会長だけでなく、傍らでお盆を抱えて話を聞いていた京堂秘書までが、いつの間にか口を開けてキョトンとしていた。  えぇー? 何なんだ、その反応は。例え場当たり的に浮かんだアイデアが難題だとしても、商社マンが「できない」なんて言うわけないじゃん。  何の仕事にしてもそうだが、「できるか否か?」といった次元ではなく、自信を持って「やれます」と有言し、実行した奴こそが信用を勝ち取れる。その場で即答できなかったり、代替案を提示できないのなら、最低限会社に持ち戻って上司や同僚、下請け業者らと出し合った知恵を引っ提げて出直すくらいはやらないと。 「会長?」 「あ? ああ、すまん。そこは全く考えてなんだわ。まぁ無難に、アジやイワシあたりがエエんちゃうか」 「池を増設する以上、観賞用としても放流なさるわけですよね。そこでアジやイワシが最適と?」 「アカンか?」 「いえいえいえ、それは会長のお心ひとつですから。ただ、ご希望の通りにアジやイワシを同時に放流なさるなら、常に二十度を維持するための水温管理システムの搭載が必要になりますね」 「二十度? 何でや?」 「ウチの子が読んでいるお魚図鑑の記述によると、一般的なマアジなら、最高水温二十五度まで耐えられます。でも、それではイワシが苦しくなります。なので二魚種をギリギリ共存させるなら、水温はイワシの生存限界である二十度に合わせないと、池には早晩イワシの死骸が浮かぶでしょう。ただ、これはあくまで妥協案ですから」  その惨状を頭の中で思い浮かべたのか、秘書の京堂さんがハッと息を呑んだ。魚釣りという事業でひと財産を築いた以上、たとえ道楽の池造りであっても、死んだ魚を見せ物にするのは全く矛盾している。 「特にカタクチイワシは、二十度よりさらに下の水温、十七度くらいが適正水温のリミットだと思います。夏場のサビキ釣りで釣り上げ、水バケツの中で泳がせるカタクチイワシの命は実に(はかな)いですから。あと、エサとなるプランクトンの――」 「わ、分かった! すまん柚月くん、この話は無しにしてくれ!」  イワシの次はアジの飼育環境をシミュレートするつもりだったのだが、苦々しく顔を(ゆが)めながら聞いていた東条会長は、たまりかねた様子で話をぶった切り、海水の池造りを早々と断念してしまった。 「ね、会長。これでお分かりになったでしょう? 柚月さんは時折、会長でもご存じない知識を披露してくださるんですよ」  京堂さんはそう(たしな)めると、すっかり疲れた様子の東条会長に優しく微笑みかけ、飲み干したお茶のおかわりを注ぎ始める。  たぶん京堂さんは、会長がこんな風に、思いつきをすぐ実行に移させようとするクセを、そのつど(いさ)めていたのだろう。 「わしが現場から離れて長うなる、っちゅうのは何の言い訳にもならへんわ。柚月くん、おおきにな。君がおらなんだら、わしは取り返しのつかんことをしてまうところやったわ」 「え。いやいや! 勿体ないお言葉です。できれば、会長のご希望に添える提案をしたかったんですが……」  海水の池で魚を飼育するには、幾重ものハードルがある。複雑な問題点と、解決法を提示した上で商談を進めるつもりだったのだが、申し訳なさそうに提案を取り下げる東条会長を見るに、本気で実現できるとは思っていなかったのかも知れない。

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