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61.中期滞在(10)

 ――どす黒い雨雲が遠ざかった翌朝。俺たちは不動産屋へと足を運び、仮予約(仮押さえ)をしておいたマンスリーマンションの内見に行った。 「ご覧の通り、部屋はそこまで広くないんですが、オプションでのツインベッドを置いても、それなりにくつろげるスペースは確保できるかと」  不動産屋さんは取り出したメジャーを使い、部屋の端っこからツインベッドまでの距離を計測する。端っことは言っても、備え付けの家具やらテレビやらが置いてあるため、そこからの計測だ。 「まぁまぁいいんじゃない? ミオ。ベッドを広めにしてもこんだけ余裕があるなら。テーブルを置いてご飯を食べるくらいなら、そんなに不自由はしなさそうだよ」 「ほんと? ボクはお兄ちゃんと一緒のベッドで寝られるならどこでもいいよー」  と、小声でささやく。さすがに「どこでもいい」という言葉を不動産屋さんに聞かせるのはマズいと思ったようだ。 「えっと。浴室を見ても?」 「ぜひどうぞ。温水が出るまで時間はかかりますから、お水が出ている間は栓を抜いておいてください」 「大体どのくらいですか? 一分くらい?」 「はい、そのくらいにはなります。配管の関係上、お水を出し切るまでに時間を要するものと考えて頂ければ」 「なるほどなるほど、給湯器に問題はナシと。……このスペースなら、お風呂は一人ずつになるかな」 「むー」  部屋の広さが広さなもので、ある程度の制約は覚悟していたものの、心のどこかで期待を捨てていなかったのだろう。それだけに、ミオの落胆はかなり大きいようだ。  とはいえ、オプションでツインベッドを置いてくれる物件はここだけである。有線・無線のネット回線も無料だし、家具の買い足しだってほとんど必要ない。  である以上、他の居住希望者にツバつけられる前に契約を結び、即日入居としたいところだが――。 「あのぉ。この近くに、おいしいごはん屋さんはありますか?」  そう質問をしたのは、誰あろうミオだった。物件選びとして内見に訪れる際、必要なのは間取りや陽当たりの良さばかりではない。近隣に店はあるか? 治安は良いか? などのリサーチも必要だ。そういう意味では、ミオの質問は理に適っている。  大学生時代、そこそこ名の知れたラーメン屋へ訪れた時、無口な店主のおっさんが客席のカウンターで絵本を読んでいた。繰り返しになるが、客席で、である。  で、客として訪れた俺のために、ラーメン屋のカミさんが店主に「そこ空けられる?」と聞いても、首を横に振って、客席を譲ろうとはしなかったのだ。  態度でメシの味が左右されるわけではないが、のれん分けをしてもらったラーメン屋がこんな体たらくでは、食事の内容よりも、居心地の悪さばかりが印象に残ってしまうのである。聞けば、その店はずーっとあんな感じで、常連客ばかりを優遇していたらしい。  そうやってえこひいきを続けた結果、(くだん)のラーメン屋は翌年には閉店していた。味よりも悪評が勝るメシ屋は、どんな有名店の系列であろうと客足が遠のいてしまう。それを店主自ら証明してしまったのは、身を挺した皮肉だとしか言いようがない。  ゆえに、俺たちのようなよそ者でも、温かく迎えてくれ、ついでにウマいものを食わせてくれるメシ屋が存在するか否かを問い確かめるのは、食を楽しむ人間が持つ当然の権利なのである。

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