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61.中期滞在(30)

「イトヨリダイってこれでしょ。体は赤いけど、中は白身のお魚なんだよ。でも、雨の日に行って釣れたのー?」  ミオはマンションに戻るなり、大切にしているお魚図鑑を開き、イトヨリダイの紹介ページを見せてくれた。何度も読み返しているからか、何ページに、どの魚を紹介しているのかを把握しきっているようだ。 「へぇ、これがイトヨリダイなんだ。俺が聞いた話だと、雨降りの中、四時間くらい粘ってようやく一匹釣れたらしいよ」  もっとも、その釣果と引き換えに風邪を引いちゃって、「念の為に」ってことで検査入院までさせられてんだから、とてもじゃないが、元が取れたとは言えない。 「そこまでして釣りたかったってこと? イトヨリダイって、よっぽどオイシイのかなぁ」 「会長の秘書さんからの又聞きだけど、串本で釣れるイトヨリダイは、九月から旬を迎えるんだってさ」 「ふーん。見た目はちょっとあのお魚に似てるけど、イトヨリダイ科って書いてあるし。食べ方とかがトクベツなのかもねー」  そんな話をしながらミオは、胡座(あぐら)をかいた俺にもたれかかって座り、改めてお魚図鑑を広げる。いつも思うが、ごく自然に身を寄せてくるところが、いかにも猫っぽくてカワイイよな。 「ねね、お兄ちゃん。大阪では釣れなかったのかな?」 「イトヨリダイを?」 「そ。大阪にも海はいっぱいあるでしょ。だから、どこかにいそうじゃない? って思って」 「俺もその可能性を探ってみたんだけど、スマートフォンでチラッと調べた限りでは、ほとんどが船釣りでの釣果だったよ。大雨の日は船を出さないところが多いだろうから、無理を承知で串本まで行ったんじゃないかな」 「なるほどー。じゃあやっぱり、今が一番オイシイお魚ってことなんだ?」 「……たぶん。実を言うと、俺もイトヨリダイは食べた事がなくってさ。魚市場に並んでるなら、場内の食堂で食べられるかもだね」  という、およそ希望的観測でしかない話に心がときめいたのか、ミオはこっちへ振り向き、目をキラキラと輝かせ始めた。どうやらイトヨリダイの事を調べ続けるうちに、自分も食べてみたくなったようだ。  さすがはお魚大好き子猫ちゃん、実に自然な反応だねぇ。 「ミオ、イトヨリダイを食べてみたくなった?」 「うん。食べてみたーい」 「じゃあ、良い機会だし食べてみるか。大阪なら中央卸売市場(ちゅうおうおろしいちば)の近くに食堂がいっぱいあるだろうから、今度の土曜日にでも行ってみようよ」 「ありがと! でも、大丈夫? お仕事とか……忙しくない?」  いつもの事だけど、ミオは優しいなぁ。自分の望みよりも、彼氏の都合を優先して気にかけてくれるんだから。 「大丈夫だよ。土曜日になったら、おいしいイトヨリダイを食べに行こうね」  (ささや)くように答えて安心させた後、頭を撫でてあげると、ミオはすぐメロメロになる。ごく普通のスキンシップだと思うんだが、こうまでゾッコンになるものなのかな。

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