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62.お魚さん尽くし(3)

 昔の(ことわざ)に、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」というものがある。恥を忍んででも、教えを請えば学びになる。が、恥を恐れて知る機会を逃してしまったら、かえって恥をかきながら生涯を終えるだろう。  (おおむ)ねそういう意味の人生訓である。この諺の由来として、「千利休がそう言った」と解説するウェブサイトは存在するのだが、それを裏付ける証拠はない。  他方、一六三八年、松江重頼(まつえしげより)により発行された『毛吹草(けふきぐさ)』という俳諧論書(はいかいろんしょ)に「問ふは一旦の恥 問はぬは末代の恥」という一節が記されている。同じ意味を持つ教訓の由来を特定するなら、毛吹草がそれであると考えて差し支えないだろう。  ……って事で、京堂さんに教えを請うて「絆ホルモン」の正体と、おいしいイトヨリダイ料理が食べられる店をご教授いただき、早々に仕事を終えて帰ってきた。  時刻はまだ、正午をちょっと過ぎた頃。ミオは配達された弁当を机に並べ、給湯室でお茶の用意を進めているようだ。 「ただいまー、ミオ。帰ったよ」 「あ! お帰りなさーい!」  俺の声を聞くやいなや、ミオはお茶淹れを中断し、小走りで抱きついてきた。さすがは子猫ちゃん、耳ざといねぇ。 「さみしくなかった?」 「うん。ウサちゃんと一緒にお勉強してたから、あんまりさみしくなかったよぉ」  ウサちゃんとは、ミオと遊びに行ったウサギ専門の動物園で、おみやげとして買ったぬいぐるみのことだ。  ミオがお留守番などで一人になった時、このロップイヤーのウサちゃんを俺だと思って抱っこして、さみしさを紛らわせているらしい。  時には、子をなせない俺たちの子供という設定で、赤ちゃん代わりに可愛がられたりもする。つまり、いかなシチュエーションを問わず、ウチにとっては大切な家族になったという事だな。 「そっか、良く頑張ったね。いい子いい子」 「にゃぁーん……お兄ちゃんのいい子いい子、大好きにゃんなのぉ」  こうやって頭をナデナデすると、ミオは猫なで声で甘えてくる事が多い。それは、心から好きな人にナデナデされたからこそ分泌される「絆ホルモン」のおかげではないか? というのが、京堂さんの推論だった。  絆ホルモンは、別名「幸せホルモン」とも呼ばれ、物質名では「オキシトシン」と呼ばれる。オキシトシンが分泌されると、幸福感、安心感などが得られるだけでなく、人との繋がりを強く感じ、授乳中の赤ちゃんへの愛おしさも強くなる。つまり、オキシトシンとは、主に女性に多く分泌されるホルモンなのである。  なぜ性差が生まれるのか? という疑問への答えとしては、単純に、女性ホルモンとして有名な「エストロゲン」の多さに性差があるからだろう。エストロゲンはオキシトシンの分泌を促すほか、最高レベルの激痛とも言われる「産痛」の辛さなどを和らげるべく、オキシトシンの効果を強化させてくれるのだ。  他方、男性ホルモンの「テストステロン」は、逆にオキシトシンを抑えてしまう。にもかかわらず、恋人の俺にナデナデされたり、抱っこされた時だけ強い幸福感を覚えるのは、ミオがオキシトシンの分泌を抑制されない体質だからなのでは? というのが京堂さんの立てた仮説だった。  まぁ、説得力はあるよね。限りなく女の子に近いショタっ娘のミオなら、女性ホルモンの方が勝っているのかも知れないし。 「にゃ! お兄ちゃん、ずーっといい子いい子して欲しいけど、冷めないうちに、お昼ご飯食べよ?」 「うん、そうしよう。ミオの好きなお魚さんが、おかずになっているといいね」  ミオは満面の笑顔で大きく頷くと、再び給湯室へ駆け戻って行った。あの子が俺にだけ甘えんぼうになる秘密は分かったけど、あえて黙っておくことにしよう。  恋愛において、お互いが好き合う事に化学を用いて解説するのは無粋だし、明確な根拠もない。京堂さんには悪いけど、絆ホルモンの件はあくまで参考として、俺の胸の内にだけ秘めておこう。

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