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幕間(2) 「楔」の正体(2)

 とある事件が契機となり、急転直下で舞い込んできた超・大口の仕事。ウチのような中堅の商事会社にとって、受注金額が三億にまで及ぶ仕事はホントに珍しい。  顧客の名前は、関西の政財界に幅を利かせられる超大物・東条信三郎(とうじょうしんざぶろう)。東条釣具店(つりぐてん)の創業者で、海釣り公園や釣り堀と、本業である釣具店との複合レジャー施設で財を成したアイデアマンだ。  今でこそ、事業を息子さんに継承する形で会長職に退(しりぞ)いたものの、各界への影響力はいまだ衰え知らずだという。俺のような普通の商社マンにとっては、雲の上に立つ存在。そんな印象だった。  ……しかし。  その東条会長が御自(おんみずか)ら、大阪の本宅にある広大な庭をリフォームしてもらいたい、という仕事を依頼してきたというのだから、そりゃもう社内全体が色めき立ったものだ。  最初に提示された予算は三億円。しかも「見積書の値引きは必要なし」という、なんとも豪気な依頼だと驚いたものだが、ただ一つだけ条件ついた。  その条件とは大阪支店の人間ではなく、関東の本社務めである、俺が担当者になることだったのだ。  予算が予算なだけに、よもやのご指名でも「俺は本社の人間だから」などと断るわけにはいかない。だから俺は、休学中のミオを連れて大阪へと渡った。そして今は、庭園のリフォーム工事が終わるまで、マンスリーマンションと小さなオフィスを借り、そこでミオと一緒に過ごす日々を送っている。  で、立会も兼ねて東条会長との商談に当たった折、いかにも不可思議な「(くさび)」というフレーズが飛び出した事に、違和感を覚え続けていたのである。 「クサビ?」 「うん、クサビ。漢字で書くとこうなるんだよ」  ミオが俺の背中をフミフミし続けている間、メモ帳の一ページに、大きな文字で〝楔〟と書き、読ませてみた。 「この漢字をクサビって読むの?」 「そう。大工さんたちが使う専門用語で知られる事が多いかな。こんな風にVの字型で、石を割るために差し込んだり、ハンマーがすっぽ抜けないように打ち込んでおくんだよ」  こういう時は、口頭での説明よりも、メモ帳に絵を描いて教えるのが分かりやすい。「百聞は一見にしかず」ってやつだ。  ハンマーと言ってもピンキリではあるが、木製の柄を頭に差し込むハンマーの場合、よほどジャストサイズでなければ、アクシデントで頭が飛んでいってしまうおそれがある。それを防ぐために楔を打ち込み、ジャストサイズ以上の安定感を実現させるのだ。 「ふーん。それで、このクサビがどうして気になるの?」  フミフミを続けながら、ミオが新たな疑問を口にする。何だか背中のマッサージをしてもらってるみたいで気持ちいいんだが、この子にはそういう才能もあるのかもなぁ。  付け加えるなら、俺の腰を挟むようにまたがっている、この子の美脚も実に心地よい。生足だからこそ伝わる、太ももの柔らかさと温もりが特に。 「話すと長くなるんだけど、〝楔〟を使った慣用句(かんようく)があるんだよ。例えば『楔を打ち込む』とか」 「……んん? それって何が違うの? 石を割ったりするためにクサビを打ち込むんでしょ」 「まぁそうなんだけどさ。道具としての楔であっても、言葉を使うシチュ……状況によっては意味が変わるんだよ。それが〝慣用句〟ってわけ」 「へぇー。日本語って難しいんだね! ふみふみー」  一見、フミフミして甘える事に集中しているような印象を受けるかも知れないが、ミオの感想は本質を突いている。なぜなら、日本語はホントに難しいからだ。  なぜ同じ言葉が二つの意味を持つのか? という疑問を抱くのは、何も日本語検定に手を焼く人ばかりではない。俺やミオにだって、てんで説明のつかない言い回しが存在する。  その中の一つが、東条会長が口にした「楔」に(かか)る慣用句だったのである。

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