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幕間(2) 「楔」の正体(5)

「えーとな。あくまで万が一だよ? 俺が浮気でもしようものなら、その証拠になる香水の匂いすら残さないと思わないかい?」 「……あ! そっか! お兄ちゃん、完璧超人だもんねー」  存外あっさり疑惑が晴れたわけだが、これは褒められているのか? 確かに完璧主義なところがあるのは認めるけれど、「超人」ってのは何なんだ。 「まぁそういう(わけ)で、『(くさび)を打ち込む』という慣用句は、主に邪魔をする、相手方に割り込む。そんな意味合いで使われる場合が多いって事だな」 「ふーん。道具で例えるのって不思議だね。普通に『邪魔する』とか『割り込む』って言うだけじゃダメなの?」  この子はホントに(さと)いというか鋭いというか、物事の本質を突いた疑問を抱く事が多い。実際、なぜ慣用句を使う必要があるのか? と問われ、どれだけの人がミオを納得させられる答えを持つのだろう。  暗喩(あんゆ)を用いる事で直言を避けたとか、慣用句を活用すると知的に見える・聞こえるなどの理由は、いずれも大人側の都合でしかない。つまり、そこにミオが求める回答は存在しないのだ。 「うーむ……そう言われると、確かに必要なさそうではあるよな。そもそも楔自体を知らなきゃ、慣用句の意味だって通じないだろうし」 「でしょ?」 「たぶん、ミオくらい幼い子が使う事を想定してなかったんじゃないか? 『楔を打ち込む』が最初に使われたのがいつなのかはハッキリしないけど、大昔の童話を日本語で翻訳した時に、それっぽい言葉が載っていた可能性はあるらしいよ」 「童話? グリム童話とかイソップ童話(※)とかの?」 「そうそう、その童話。楔が云々(うんぬん)という言葉が飛び出した元の童話は、ゲーテによるものなんだって説が残ってるんだよ。もっとも、140年以上前に翻訳された本の話だから、今、その現物を取り寄せて確認するのは難しいだろうな」 「えぇ? ボク、その人全然知らないよ。お兄ちゃんって、ホントに何でも詳しいんだねー」  そう言って、尊敬の眼差しを向けるミオには若干後ろめたいところがある。なぜなら、俺が青峰(せいほう)大学一年生の時、学祭で開かれた『雑学王グランプリ』の出題をたまたま覚えていただけの話だからね。 「第三十一問! ドイツの文豪、ゲーテが翻案(ほんあん)した風刺文学『(きつね)のライネケ』の素となった作品は?」  これはもの凄く難しい問題で、思い出すのに相当な時間を食った覚えがある。正解は『Reyneke de vos(レインケ・デ・ヴォス)』、即ち、『狐のライネケ』そのまんまでも正解なのだが、実は異なる原題だったのでは? という引っ掛け問題としての側面も持っていたのだ。  深堀りすると、『Reyneke de vos(レインケ・デ・ヴォス)』は低地ドイツ語による原題であり、現代の標準ドイツ語とはスペルが異なる。なので、正答としてフリップに書くなら、日本語であるのが望ましい。というか無難だった。  ちなみにゲーテが翻案し、今日の邦題として広まった『狐の裁判』は、出題された通り、童話ではなく「風刺文学」としての意味合いが強い。  そのおかげで、「狐は小ずるい生き物」だという印象を植え付けられてしまったわけだが、『カラスと狐』みたいな寓話(ぐうわ)や、家畜だったニワトリらを襲う習性などの実害を(かんが)みた結果、狐が小賢しいという共通認識は、ゲーテよりはるか昔に確立されていたのだろう。  ……今になって思い返すと、あの問題は、およそ雑学の範疇(はんちゅう)だとは思えない難しさだったんじゃないか? かくいう俺だって、子供の頃に読んだ偉人伝の中で、最期に「もっと光を!」と訴えたとされる背景を調べるうちに、たまたまゲーテの生涯に詳しくなっただけの話で。 ※『イソップ童話』は、大人にとっても教訓となる話が多いため、近年では『イソップ寓話』と記述される事が多い。

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