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62.お魚さん尽くし(15)

 餌やりなどの事情はともかく、ミオにとっては、生きたカブトガニを見るのは初めての経験なのだろう。俺に抱き上げられ、ほぼ真上から天板ごしに覗き込み、写真を撮れたのがよほど嬉しかったのか、足をパタパタさせながらはしゃいでいる。  そりゃあ、よもや知名度が低い卸売市場の敷地内で、実に四匹ものカブトガニを飼育しているとは夢にも思わなかったもんな。見学コースとしてお勧めされるのも頷ける話だ。  もっともこのミニ水族館が、かねてより逢引の場としても使われている、という裏事情を知る人は、おそらく来訪者の一握りにも満たないだろう。かくいう俺だって、食堂のおカミさんから教えられたばっかりなんだし。 「写真、うまく撮れたかい?」 「うん! お兄ちゃんが抱っこしてくれたから、カブトガニちゃんがいっぱい撮れたの。ありがと!」  明るい笑顔と返事から察するに、どうやらカブトガニの観察と写真撮影には満足したようだ。俺は名残り惜しさを覚えつつ、床に下ろしたミオの腰から、そっと両手を離した。 「ねぇねぇお兄ちゃん。この水族館って、他にも珍しい魚を飼ってたりするのかな?」 「たぶん居るんじゃないか? 入ってすぐカブトガニのでっかい水槽が目に付くから何だけど、奥にも何かありそうじゃん」  そう言って指差したその先には、寿命間近で点滅を繰り返す蛍光灯が、辛うじて(いく)つかの水槽を照らしていた。が、ホントに何かがいるのか否かは、ここからでは確認できない。  整備の担当者が無頓着なのか、設備管理に回すおカネが無いのかは分からないが、いずれにしろこの水族館、カブトガニの飼育以外には、あまり力を注いでいない印象を受ける。  もしかして、それが本来の目的だったりするのか? 例えば、逢引のムードを演出するために、特殊な蛍光灯をわざと使っているとか。  ……いやいや、それはさすがに飛躍(ひやく)しすぎか。ここはあくまで〝水族館〟なんだから。 「あっちも見に行ってみようか。ちょっと暗いけど、怖かったらすぐ帰れるからね」 「だいじょぶだよ! お兄ちゃんが一緒にいてくれるんだもん。ボク、何もこわくないよー」  カワイイなぁ、もう。きっとこの子は俺さえ隣にいれば、お化け屋敷にすら動じないんだろうな。  こんな事を言うと惚気自慢(のろけじまん)になっちまうから何なんだけど、こうまで頼ってくれると、彼氏冥利(みょうり)に尽きるってもんだよ。 「あ! 見て見てお兄ちゃん! こっちの水槽にはタコがいるよー」 「ホントだ。水槽に貼ってるプレートには『マダコ』って書いてあるから、たぶん底引き網で引っ掛けたのかもなぁ」 「そうなんだ。ねね、タコって釣り竿では釣れないの?」  お! 意欲的だねぇ。魚釣りの才能が開花した、ミオならではの質問だ。  こないだ、イカ料理を食べに行った時の釣り体験から、タコが相手でも同じ手が通じるのでは? みたいな趣旨の事を聞きたいのだろう。たぶん。 「一応釣れはするよ。もっとも、特殊な釣り餌を用意しなくちゃいけないけどね」 「んん? トクシュってどゆこと?」 「タコにはタコ専用の餌木(エギ)があるんだよ。それを単体で使ったりとか、餌木にキビナゴを巻いてみたりする」 「ふむふむー? でも、それだけ聞いたら、イカを釣る時とほとんど同じみたいだけど……」 「まぁそうだな。ただ、海の底にいるタコをタコエギで釣るには、色々と難しいところがあって――」  とまで説明していたところ、屋外から、やにわに怒声のような叫びが(とどろ)いてきた。  そのやかましさで何かを感じ取ったのか、俺の腕に抱きついているミオから、かつてないほどの緊張感が伝わってくる。  こうなっては、もはやデートどころの話ではない。まったく、どこの誰だか知らないが、公共の場でハタ迷惑な真似をする奴がいたもんだ。

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