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62.お魚さん尽くし(16)

「お、お兄ちゃん? お外がコワイよ……」  どうやら、卸売市場の構内にて、何らかのトラブルが起きた事をミオも察したようだ。かわいそうに、おびえるあまり声が震えている。  聞き慣れない大阪弁の応酬は、おそらく多対一。というのも、先程から(くだん)の怒声でがなり立てている張本人を、複数の大人がたしなめている、そういうニュアンスを感じ取ったからに他ならない。 「ミオ、ここなら安心だから隠れて待ってて。俺は外の様子を確かめてくるよ」 「やだ! お兄ちゃんと一緒じゃなきゃコワイよぉー」  今にも泣きそうな表情のミオは、より強く抱きついて離そうとしない。最も安全でいられる提案をしたつもりだが、確かに無理からぬ話ではある。  おそらく、この子はこの子なりに、俺が暴漢に襲われ、また離れ離れになる最悪のシナリオを恐れているのだろう。まぁそもそも、怒声の主が暴漢である、という確証もないのだが。 「分かったよ、それじゃ一緒に行こう。でも、絶対に離れちゃダメだぞ」  ホッとして大きく頷くミオの手を引き、水族館から出ると、喧騒が聞こえる方角に大体の見当がついた。酔っ払いなのかクレーマーなのかは知らないが、大声でわめき散らす男は、俺たちが朝食を取った食堂から近い、海に面した波止のあたりまで押し戻されているようだ。  何もかも、押し問答のような言い争いにてかき消されてしまうため、ミオを背後に隠したまま、足音や、声を消した状態で近づくのはそんなに難しくはなかった。  難しくはなかったのだが――。 「あっ! ミオちぃのお兄、やない、柚月(ゆづき)さん! 助けに来てくれはったんですね!」  俺が合流するまで、ミオの見学を手伝ってくれていた食堂の看板娘、和音(かずね)ちゃんに早々と見つけられてしまった。 「た、助け? ゴメン、ちょっと話が見えて来ないんだけど、ケンカか何かが起きたの?」 「ちゃいますちゃいます! あの〝迷惑男〟がまた来よったんです!」  迷惑男? 迷惑男というと、朝食後に詳しく聞いた、あいつの事かな。  終始不機嫌そうな顔でイトヨリダイの定食を注文して、ハシもつけずに外道呼ばわり。あまつさえ、一円たりとも払わず出ていった、鷹野(たかの)とかいう男。 「ねね、お兄ちゃん。それってもしかして、出されたご飯を食べずに帰った人のことじゃない?」 「うん、俺も真っ先にそいつが浮かんだよ。和音さん、その迷惑男は一人で来てるの?」 「ハイ! ウチら食堂の寄り合いで、『あいつだけは出禁にしよう』って話が進んどった時に、酒に酔うて来たみたいで……」  なるほど。だからお店に近づけないよう、各食堂の店主さんたちが力を合わせて、件の迷惑男を押し留めていたのか。  にしては、店主側の旗色が良くないな。鷹野はたった一人ではあるが、ガタイの良さは比類するものなし。更には酒の力を借り、酔った勢いに任せて、理不尽な暴言や暴行を繰り返しているようだ。 「おどれら、ええ加減に退()かんかい! オレァ客やど! 客がメシ食いに来てぇ、一体何がアカンのんじゃぁ!!」 「その客がメシも食わんと、金も払わんとやったらコッチには損害しか出ぇへんのや。頼むから帰ってくれ!」 「やかまっしゃあァ!! またビール瓶でドツかれたいんか!?」  え?  鷹野の奴、ビール瓶で人を殴ったのか? 「食堂へメシを食いに」来て? 「和音さん。今の、ビール瓶の話はホント?」 「ハイ。寄り合いで聞いた話やと、あの男、他の食堂でも暴れよったらしいんです。幸いケガは軽かったし、大事(おおごと)にしたないって理由で黙ってはったみたいなんですけど、『もう我慢できひん』って……」  そこまで話した和音さんは顔を歪めて唇を噛み、悔しさを押し殺しているようだった。

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