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episode.3

      *   *   *           すっかり指になじんできたエディーの日記帳を、痺れる指でめくる。あの時に感じたひだまりが、ページをめくる度に香るようだ。  エディーは、太陽だった。明るくてあたたかくて、生命そのものだった。あの笑顔も、声も、いつまでも傍で私達を包んでくれると思っていた。エディーは、むきだしの命だった。力強い新芽、これから伸びゆくしなやかで美しい枝、溢れんばかりの生命を感じさせる果実。故郷で輝いていたオレンジのような青年。  愛しかった。        1942年 11月8日       『無事、オランへと到着する事が出来た。僕は生きている。もちろん伍長も。ただ、ホワイトが壮烈な最期を遂げた。彼は英雄だ。そして、そんな彼を失ってしまった事が悔やまれる。僕は、何も出来なかった。ただ、見ていることしか出来なかった。僕は、あの時どうしたら良かったんだろう……。  ホワイトは、僕を見ていた。視線が合ったと思った。涙が止まらなかった。この涙は、どういう感情を吐きだしているのだろう。それさえ、よく分からない。  それと同時に、兄ちゃんの事を思ったよ。兄ちゃんもホワイトのように苦しんだの? それでも、生きていてくれて本当に良かった。』        エディーも、ホワイトと目を合わせたのか。もしかしたら、あの場にいた全員が同じ事を思っていたのかもしれない。ミゲル・ホワイトを助けてやる事ができなかった後悔が、そういった錯覚を引き起こしたのかもしれない。きっと、誰もが彼の事を永遠に忘れないだろう。彼の死に様は、そういった類のものだった。        同日    『もう一つ、記した方がいい事があったので、追記する事にしたよ。  ドネリー伍長と一緒にCレーションを食べたんだ! そのせいかな、普段は不味くて不味くて仕方が無いぐずぐずの豆も、肉も、ちょっとだけ美味しく感じたような気がしたんだ。気のせいだろうか? こんな事は初めてだよ。  それで、いつも近くの方で食べていたけれど、今日は思い切って話しかけてみる事にした。伍長がなんとなく、沈んでいるように見えたから……。  伍長は普段から寡黙な人で、思いつめたような顔をしている事が多い。それでも、今日だけはいつもと違ったような気がした。伍長は、きっとホワイトの死に、必要以上に責任を感じているんじゃないかな。わからないけど、伍長はそんな人だ。自分の方から、周囲に転がっている責任とか、悲しみとか、そういったものを拾い集めているんじゃないかと思うよ。優しい人だとは思うけど、それじゃあ身が持たない。悪い事ではないんだよ、だけど、何でもかんでも背負っちゃうと、歩けなくなるよね。  さらにもう一つ。伍長がスプレッドをくれた! それも、リンゴのやつ! 踊り出したい気持ちを抑えるのに、苦心したよ。  僕にとって、リンゴのスプレッドは特別なんだ。特に、伍長から貰ったリンゴのスプレッドは。  なぜかリックまでスプレッドをくれたのには、驚いたけど。』        あの時の事か。思わず苦笑が零れた。  それにしても、私からのスプレッドが特別とは、一体どういう事だろう。  疑問に感じながらも、するすると読み進める。      『ところで、伍長は一度僕に会った事があるんだけど、覚えていないかな?』     何かに突き動かされるようにページをめくっていたが、ふと気になる記述を見付け、首を傾げた。私とエディーは基地で会う以前に、出会っていた? 会っていたとするならば、私が休暇中にビルの家を訪れた時くらいだと思うのだが……。  私はあれこれ思案しながら、また日記に目を落とす。まだ記述は続いていた。    『伍長はあの日、僕にお土産として、リンゴのスプレッドをくれた。「兵隊の食事には必ず付いているものだ、内緒だぞ」と言って笑っていた。従軍を控える僕の緊張をほぐそうと、わざわざ持ってきてくれたものなんだろうな。きっと伍長は、自分よりも年下の人間は全て甘党だと思っている。真面目で、無骨で、不器用で、堅い人だ。』        ああ、そういえば、ぼんやりと記憶に浮かぶものがあった。  士官学校を出なかった私達の階級が、なんだかんだで上等兵に昇格したような頃だったと思う。  他の隊員の遺品を届けるついでに、彼の実家へ寄ってみた。庭に植えてあるサクランボの樹に、青い実がぽつぽつと生っていたのを覚えている。少し肌寒く感じる日で、霧のような雨が降っていた。ほのかに香る潮風と、淀んだ曇天。暗い、午後二時のバージニア。  私は土産のケーキを小脇に抱え、そわそわしながらニコルソン家のチャイムを鳴らした。冷たい風が吹き抜けるのと同時に、薄く開いた扉から、歳は15、6だろうか。少年が怪訝そうに顔を覗かせたのだった。  そうか、あれがエディーだったのか。私は確かにそこで、彼に会っていた。  折しもその時、肝心のビルは不在だったようで、私は中で待たせて貰うことにしたのだ。初めて訪れる他人の家で、それも尋ねなければならぬ本人がいない中、どう振舞っていいのか分からず、私はひたすらにコーヒーを啜っていたように思う。  少し陰った、知らぬ匂いのする応接間で、私は友人の弟と向かい合っている。彼も少しだけ困っているのか、落ち着かないように曇った景色ばかり見ていた。悪い事をしてしまったな、といたたまれなくなる。  そうして私は、ふと思いついて、ズボンのポケットに潜ませていたリンゴのスプレッドを取り出したのだ。  その時に、エディーの日記に記してあったような言葉を言ったかも知れない。まさか、あんな一幕をずっと覚えていただなんて……。        無事にビルとも再会を果たし、特に何をするでもなく、すぐに席を辞した。エディーも勉強をするとか何とかで、大事そうにスプレッドを持ったまま自室へと引っ込んだ。たった、それだけの事だった。  来た時と同じように、サクランボの花を眺めながらとぼとぼと帰路に就いた。  ニコルソン家を辞した後、警邏に励む州兵を見かけた。私はこの時、後にオマハの淀んだ赤い海で、彼らと運命を共にする事をまだ知らなかった。  そして、私の手でエディーの遺品を整理しなければならない未来がやって来る事も、知らなかった。         

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