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episode.5

      *   *   *           私は思い返す。シチリアでの日々を。  すすけた緑のテントが地に根を張る一帯。少し力の抜けたように思える兵士達の声、ざわめき。簡易ヒーターでレーションを温める、あの瞬間。ほっとするのと同時に、なぜ今日も生き残れたのだろうと、ほんの少しだけ疑問を持ったりもする。それは決してネガティブが引き起こした考えではなく、純粋な疑問だ。あれほどの銃弾が飛び交う中、こうして生き残って安全な地点まで帰り、飯を食う。当たり前の事といえばそうなのだが、不思議な心地になるのも常だ。        今日も、危なかった。連合軍はジェーラ海岸から進軍し、少しずつ戦線を押し上げていた。ハスキー作戦と銘打たれた今回の作戦は、主に英軍の援護という役回りで、私たち第七軍は側面援護を続けながらパレルモへ進軍する手筈となっている。  瓦礫の目立つ市街地で、積まれた土嚢に仲間と身を寄せ合い銃を構える。自動小銃の絶え間ない銃声が割らんばかりに耳をつんざき、指示を飛ばす上官の声さえ掻き消していた。直接内臓をえぐるような迫撃砲の轟音に、思わず身を竦める。この作戦で初めて実戦投入されたM2 107mm迫撃砲は、曲射弾道を描いて着弾する。市街地戦では特に有効だ。  この迫撃砲は、従来の榴弾砲と比べて数千メートル程射程が短くなるが、その分、火力が高い。初陣にしては、上々な活躍をしてくれた。しかし、頼もしい兵器というものは、自分達に襲いかかった時にも絶大な力を振るう。敵軍の迫撃砲でこちらの分隊がまるまる壊滅する事も稀ではないし、現にこの作戦では、自軍による対空砲火によって降下兵達が甚大な損害を受けた。これらは空陸両部隊の連携ミスによるものだった。  銃弾は、敵兵を目掛けて進むのではない。あくまでも、ただ弾道通りに進むだけだ。その線上に味方がいれば、そいつに被弾する。運が悪ければ死ぬ。それだけは避けたいのだが、難しい場面もある。 「頭を低くしろ! 上げるな!」  どこからかそんな声がした。銃声は絶えない。私も背を土嚢にくっ付けるようにして身体を丸め、ガーランドにクリップを押し込んだ。頃合いを見計らって、一発一発、撃ち込んでいく。ガーランドの装填は恐ろしく容易だ。一つ欠点があるとすれば、クリップが排出される際の高い金属音が、自分の銃の撃ち終わりを相手に知らせてしまう事だろうか。  シャーマン戦車が重い砲台を擡げる。慌てて耳を塞いだ。  遠方で銃を構えるエディーは、酷く顔を汚していた。特別白かったはずの顔が、今はもう他の隊員と変わらぬ姿になっている。 「グレネード!!」  心臓が跳ねる。慌てて身を庇おうとした際、物陰からはみ出たらしい右肩を銃弾が襲った。息が詰まる。慌てて押さえるが、血がじわじわと溢れた。酷く熱い。貫通はしなかったものの、少し肉を落としてしまった。大事はないと構わずガーランドを構えたが、びりっとした衝撃が一瞬脳天を貫いた。もしかしたらこれは、後々まで残るかも知れない――。漠然とした不安が波紋のように広がる。  迫撃砲が撃ち出され、身が竦む。いけない、今はそれどころではない。私は最低限の処置を済ませると、また戦場へと意識を向けた。        夜になると、またじくじくと肩が痛み始めた。  Bレーションであたたかい食事を済ませてからメディックに手当をして貰い、ようやく一息吐く事が出来た。簡易テーブルの上にシチリア島の地図を広げ、何をするでもなく、ただ眺める。疲れているのかも知れない。気力が湧かない。  海に囲まれたシチリア。海に面したバージニアの事をふと思った。ビルは、どうしているだろう。絵を描いているだろうか。  ビルも私も、海が好きだった。ここの海は美しい。今は艦隊が群れを成して浮かんでいるが、それが無ければ更に美しい水面を堪能できただろう。  海は美しい。水というのは、全てを無に収める。酸素の無い、密閉された広大な牢獄。死ぬならば、海に呑まれて死にたい。透き通るような水底から太陽を見上げながら、ただ那由多の時を彷徨いたい。  少し、ナーバスになっている。夜警の交代までまだ時間がある。仮眠を取った方が良いだろう。          意識が沈みかけては浮上する。眠気はあるのだが、神経が高ぶってなかなか寝付けないようだ。  そんな事をしている内に、交代の時間はすぐに来てしまった。おぼつかない足取りでキャンプから出ると、もたつくような夜気の中、ひょこひょこと歩くエディーの後姿を認めた。 「エディー?」  駆け寄って声をかけると、心なしかエディーはほっとしたような顔を見せた。 「ドネリー伍長。今日は徹夜ですか? ひどい顔をしている」 「そう、見えるか? 実は寝付けなくてな」 「……、まあ。その傷、痛みますか?」  指差された先は、もちろん私の肩だ。まだ渇いた血がこびりついたままのそこに、エディーは眉を潜める。 「一応処置はしてもらったが、まだ痺れるな。……大丈夫、すぐに治るよ」  後衛に回る事も考えてはみたが、貫通した訳でもあるまいし、まあなんとかなるだろう。きっと進軍する頃には痺れも取れている筈だ。こういうのを、希望的観測だと言うのだろう。そしてそれは、あまり良い結果を生まない事も心のどこかで理解していた。  死というものが彼方からにじり寄っている。気配を感じる。何か黒いものが今にも腕を掴もうとしているような気がして、私は凍えるような寒さを感じた。  肩の肉を抉られただけで、この恐怖と、痛み――。  ビルは、そしてミゲル・ホワイトは、どれほどの痛みと戦っただろうか。私は恐ろしくなった。怪我など絶えない。死人も絶えない。捕虜だって絶えない。  それなのに、この恐怖は、特別なものだ。全てを巻き込んで転落していく、始まり。この怪我は、転落の第一歩なのではないか。 「……伍長は、後衛に回るべきです。せめて数日だけでも。顔色も良くないし、手も冷たい。夜警は、僕が代わります」  エディーのあたたかい指が私の手の甲を擦った。陽だまりを感じる。頭を擡げ、粘つきながら迫っていた気配が霧散する。  ほっと、強張っていた身体がぬくもりを取り戻していくようだった。  労わるように私の手を擦るエディーの瞳は真剣そのもので、断る事を許さないと言っているようだった。碧眼を覆う薄い水の膜が、私の好きな海を思わせる。  エディーは、私に海を見せてくれた。故郷の、透き通る海。なんだか泣きたくなった。 「……悪いな、エディー」  頭を撫でると、彼も同じように泣きそうな顔を見せた。いいえ、と笑う彼の睫毛が、細かく震えている。  虫の知らせ。ざらつくような冷たさが足元から湧き上がり、私はエディーの手を握り返して引き寄せると、強く抱きしめた。  己が死ぬことへの恐怖。近しい誰かが死ぬことへの恐怖。交わっている。互いの恐怖をすり合わせるように、ただ必死にエディーの身体を抱いていた。           それから数日が経ち、我々第七軍は予想以上の捕虜を出しながらも、作戦通りパレルモへ向けて北上していた。  私はと言えば、相変わらず鈍く痛む肩を抱えたまま、前線で戦っていた。肩の状態が思わしく無い事はエディーにしか知らせていないので、誰もが弾丸を取りこぼす私を怪訝に思っていたようだ。一度は後衛に回されそうになったが、なんとか言い繕って最前線で燻っている。  エディーは最年少にしてはなかなかの健闘ぶりで、北アフリカで誰からも怒鳴られていた頃と比べても、著しい成長を見せていた。  このままでは、私がエディーを守るというより、彼に守られるようになるかもしれない――。  漠然とした寂寥感に囚われ、私は情けなくも俯くより他ない。        シャーマン戦車と歩兵が一緒くたになって戦場を駆ける。  後から分かった事なのだが、四分五裂に散った降下兵達が敵軍の情報を撹乱したらしく、思ったより枢軸軍の士気が低かったようだ。それでも銃撃戦が避けられる訳も無く、今日も今日とて崩れた建物に身を潜め、銃を構えている。 「伍長、痛みますか?」 「いや、今日は特別良い。それよりエディー、集中」  エディーのこの問いを、一日に何度聞くだろうか。  私はその度に苦笑して、本音をこぼしたり、時には嘘を言ったりしている。今日は比較的痛みが無く、指が震える事も、弾を取りこぼす事も無い。  迫撃砲や戦車が撃ち溢した敵兵を片付けて行く。  シャーマンは小型で薄く、敵軍のティーガー等に比べたらとても脆い。あまり戦車ばかり当てにも出来ないだろう。近くにいた軍曹が合図をし、我々は瓦礫の街を駆けた。

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