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episode.6

 枢軸軍の降伏は早かった。  もはや勝敗は明白で、私達も気が緩んでいたように思う。そろそろ引き上げようかという頃合いの事で、もうすぐ帰路の便に乗り込む手前だった。  準備のため、私とエディーは後方へ下がり、夜警をしていた。ぬるい風の吹く夜だったのを覚えている。もう少しで明けそうな夜空から、白い光がぼんやりと下りてエディーの表情をかすかに浮かび上がらせる。朝陽の香りをこんなにも安らかな気持ちで受け入れるのは久方ぶりの事で、解放感からか四肢が脱力しそうになる。  いい加減、ミートノイローゼになってしまいそうなエディーを宥め、私はチョコレートを齧っていた。夕飯からかなり時間が空いたため、空腹感が苛む。非戦闘地での食事はそこそこ良いものが食べられるのだが、それでも家庭の味が恋しくなる。エディーはしきりに故郷のオレンジケーキの話をし、鼻をすすっていた。 「エディー、もうすぐ帰れるな」  そう言って頭を撫でても、彼は戸惑ったように口を噤んだ。私はその様子に心当たりがあったので、少し大きめの声で先の言葉を繰り返すと、ようやくエディーは破顔した。彼は機関銃の音で、耳が遠くなってしまった。おそらくは一時的なものだろうが、きっとビルが心配してうろたえるだろうな、と想像した。言葉を紡いで彼に気を遣わせてしまうのはいたたまれないので、ただ頭を撫でていた。  本国へ帰還したら、エディーは休暇に入る筈だ。きっと、穏やかな家で家族と幸せに過ごすのだろう。私はその間、また訓練の日々が続く。痛みの引かない肩を抑えながら――。     銃の手入れをする音に混ざり、ふと、異質な物音が聞こえた。手でエディーの動きを制し、耳をそばだてる。足音のようにも、ざわめきのようにも聞こえる。胡乱な表情を見せるエディーの耳元で異常を伝え、私は立ち上がった。ガーランドを握りしめる手に力が籠る。  基地から離れたところにある、瓦解した建物の物影――。あそこの方から、何か聞こえる。  慎重に歩みを進め、万が一の為に遮蔽物から窺って見るが、何も見えない。警戒しながら後を付いてくるエディーも、唇を固く引き結んでいる。  首を伸ばし、より遠くを見ようとした瞬間、建物の割れた窓の向こうに、敵兵が見えた。  慌てて頭を引っ込めるのと同時に、破裂音が谺し私のヘルメットが飛んだ。 「伍長!」 「大丈夫だ、少しヘルメットを掠った。 それよりエディー、増援を呼んで来い!」  エディーにジェスチャーで指示を出し、私は彼方を見据える。敵兵は案外数が多い。残党ではなく、中隊からはぐれて迷ってしまった分隊だろう。撤退の途中で分断されたか。短く返事を返し、走って行くエディーの足音を背に聞きながら、砂塵まみれになったヘルメットを被り直す。彼が戻って来るまで、一人――。隙を見ながら後退するのは、まず無理だろう。向こうは10名前後構えているのに対し、私はただ一人なのだから。  不味い事になってしまった。物音がした時点で、他の夜警を連れて来れば良かった。後悔が体につんとした冷たさと痺れを齎す。しかし、エディーを下げられたのは幸いだった。  向こうはライフルだけだから助かったものの、迫撃砲でもあれば死んでいた。雨のように降る銃弾と、少しずつ削れる遮蔽物に焦りを感じながら、十字を切る。圧倒的に不利な状況に、体が震えた。いつまでもここで籠城したとしても、数の多いあちらが歩を進めればあっという間に殺されてしまう。あちらが慎重なのは、おそらく分断された事によって補給が足りていないのと、こちらの戦力を量り切れていないからだろう。  崩れた壁の隙間を縫うようにして、弾が一発撃ち込まれる。早まる鼓動をなぞるようにして、控え目な足音が背後に迫った。 「戻りました!」  いち早く隣に滑り込んだエディーが、情けなく縮こまる私を泣きそうな表情で見上げた。 「伍長、怪我は無いですね?」  この時の安堵感を、私は忘れない。私が負傷していない事をさっと確認すると、彼はしっかりと頷く。 「大丈夫です。すぐに他の者も来ますよ。ただ、寝ていた者が多くて、とりあえずは夜警だけを連れてきたようなものですが」 「まさか基地の近くでこうなるとは誰も思わないからな……。それでも十分だ、助かったよエディー。よくやった」  きちんと聞こえているのかは分からなかったが、エディーの背を軽く叩いてやると、白い歯が零れた。いつもの、エディーのやわらかな笑顔だ。  私はその表情をしっかりと瞳に焼き付け、ガーランドを構える。エディーは足を引き摺りながら反対側の遮蔽物へ回り込むと、同じく銃を構えた。 「足、どうした?」  指差すと、彼は苦笑いを溢した。 「戻る最中に、少し捻りました。大丈夫です、歩けますよ」    簡潔に述べると、エディーはすぐに真正面へ視線を投げる。その素気ない仕草に、私は一抹の不安を覚えた。彼は心配をかけまいとする時に、素気ない素振りを見せる癖があった。私が言葉を紡ぐより先に、駆けつけた夜警がグレネードを放る。遮蔽物の向こうへと消えるグレネードを目でしっかりと追い、私は来るべき爆音に備え、開きかけた口を噤み、耳を塞いだ。爆発を見届け、残りの兵士を撃つ。辺りが静かになれば、荒涼とした瓦礫の荒野と、一段と輝く朝焼けが漠然と広がっていた。 「エディー、確認しよう」  私達は生きている兵士がいないかを確認するため、銃を構えたまま前進した。散り散りになった肉片から死者数を判別するのは難しく、結局辺りを警戒するしか術は無い。かろうじて家屋の体を保っている建物も調べ、残党はいないという結論に至った。 「大丈夫だ、戻ろう」  ジェスチャーを交えつつエディーに伝える。遅れて来た兵士達に事の終了を伝え、無駄足だのなんのと騒ぐ 兵の尻を叩きながら踵を返した。あとは時間になるまで待機して、本国の基地へ帰還するだけだ。帰還したら、真っ先に肩を治療せねばなるまい。場合によっては、エディーと時を同じくして休暇を取れるかもしれない。そうしたら、彼と一緒にビルと食事をしてみたい。ビルに、エディーが隊員みんなから可愛がられていたと自慢してやるのもいい。彼にたんとレーション以外のもの、特に大好きだという、マカロニアンドチーズを食べさせてやりたい。  私は胸に押し寄せる期待が抑えきれず、後方を歩くエディーを振り返った。  そして、彼の足もとに投げ込まれた卵型のグレネードを、見た。 「エディー!!」  彼が首を傾げる。グレネードの跳ねる音が聞こえないのだ。 「逃げろ! 早く!」  私はめいいっぱい走る。足を捻った彼は、私達よりもずっと後ろに居た。それに、気が付かなかった。  喉が張り裂けそうになるほどの大声に、彼の目が見開かれる。海面が揺れるように、青い瞳が揺らぎ、さっと足元へ滑った。 「ドネリー! やめろ!」  夜警達の鋭く、悲痛を込めた声に、私は心の中で謝る。  独軍の卵型グレネードの殺傷範囲は、10メートル程度。私の爪先がその範囲に、ようやく入る。私がエディーのところまで走る事に一体なんの意味があるのか、頭のどこかで疑問が浮かぶ。きっと五体満足では帰れない。このままではエディーは死んでしまう。彼一人が死ぬなんて事は許されない。足を負傷した事を知りながら、彼に寄り添わなかった。生き残っていた兵士が、茂みの中に隠れていた事に気が付かなかった。  全ては、私のせいだ――――。        まるでスローモーションのような数秒。見事な朝焼けの前にぽつんと佇む、驚愕の表情を浮かべた小さなエディー。薄紫と緋色のコントラストに、逆光に翳った彼の体の両目、小さな海が二つ。  誰からも可愛がられていた彼は、瞬時に全てを悟った。  エディーは私達に声の無い呟きを残し、グレネードの上に腹這いになった。私の上に、彼の雨が降り注いだ。     彼を思わせるような太陽の光がエディーの断片を照らす中、仲間が銃を撃つ音をただ聴いていた。         

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