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第3話

しっ‐たい【失態/失体】  失敗して体面を失うこと。また、面目を損なうようなしくじり。「―を演じる」  思わず検索した文字を眺め『こんな所に答えはない』とページを閉じる。  人生40歳も過ぎればそこそこの失態は演じてきた。仕事で大失敗して取引先に土下座せんばかりに平謝りしたこともある。友達に失言をかまして謝り倒したこともある。恋人との約束を忘れて口を聞いてもらえなくなり、プレゼント片手に許してとお願いしたこともある。  しかし覚えている限りで、今回の失態は人生最大に恥ずかしい。  酒の上での失敗なんてよくあることだと知っているし、そういう『やっちゃった』エピソードのひとつやふたつはあるが、今回ほど恥ずかしくて、更に言うと全部記憶があるなんて初めてだ。  簡単に言うと40歳も過ぎたというのに、最大に恥ずかしくて、そして動揺もしている。  夏祭りのビアガーデンで職場の納涼会があったあの日、呂律が回らなくなった酔っぱらい特有の口調で『好きって言って、嫌いにならないで』と泣きながら縋った──。  告白して完全に酔いが回り動けなくなった俺を宮下は自宅に連れ帰った。支えられて歩くのがやっとの俺を、見た目からは判らない逞しさで不安気もなく支える宮下に『これが若さってやつか……』と茶化しながらも、きゅんとして、そして嫉妬した。  本来なら俺が『大丈夫か?』と宮下を支えて家に連れ込む役回りだろう? それが逆になるなんて……。  言った言葉は嘘偽りない本心なのだけど、時代錯誤だと言われようが、男が20歳も年下の部下にそんな姿を見せるなんて──、失態もいい所だ。……どうせなら記憶ごと無くしてしまいたかった。  三年前に好きだと言われその時は振ったのに、そこから意識して気が付いたら好きになっていた。好きになったその時に好きだと告げようかと思いもしたが、臆病な自分は恋愛が怖くて言えないまま二年近くを無駄に過ごしてしまった。  三年越しに、絶対に叶わないと思っていた恋が奇跡的に実って幸せいっぱい──、のはずなのに長年培ってきた妙な男の矜持が邪魔をする。  ……だって、恥ずかしいだろう!? 泣いて縋るなんて……。今までずっと特に職場では、男らしく、潔く、格好良くあれと、頑張って対面を保ってきたというのに一転して女々しい姿を見せてしまった。  幸い告白相手の宮下は気にした様子もなく、今までと同じように装ってくれている。だからと言って気にせずに過ごすことは俺には無理だった。 「加藤さん」  気にしていた相手に名前を呼ばれて心臓がドキリと跳ねる。 「どうした、宮下」 「この書類に目を通して頂きたいんですけど、会議まであと一時間なのですぐにお願いできますか?」 「わかった、すぐに見るからそこに置いておいて」 「お願いします」  内心の動揺を隠して対応する。動揺で声が少し詰まった気がする。宮下が俺にだけわかるように笑ったのは気のせいだろうか。  願望? それとも現実?  十年以上忘れていた『両想い』という甘酸っぱい現実に振り回される。片想いの時は楽だった。  全てが「妄想だし」と突っ込めば終わるのだ。  どんなに「好かれているのかも」と思っても、うら寂しく虚しい現実に自嘲えばよかった。「昔、宮下に告白されたことあるんだぜ」と、自分に好かれる要素があったのだと、密かに喜んでいればよかった。  片恋でなく相手にも『想われている』と知ってしまったら、その一挙手一投足を見てしまう。そして、嫌われるんじゃないか、好かれているか? と確認したくなってしまう。  浮かれる気持ちと、その先にあるものを絶望的に想う気持ちと……。以前の恋愛ではこんなこと思いもしなかった。  ──あぁ、これがトラウマってやつか……。と俺を捨てた元恋人を思う。  女と二股を掛けられ、前日まで腕の中で「好き」と囁いてキスしてくれた唇で「子供がいる」と告げられた。どんなに愛しても、誓ってもそれは永遠ではないと知った強烈な記憶──。  好きの先には──、両想いの先には、別れが待っている。  だからこそ宮下には格好悪い所は見せたくないし、頼られたい。出来ることは何でもしてあげたい。今だけでも、宮下にとってはいつか『想い出』になるのだとしても『嫌な記憶』にはなりたくない。 「何であいつが好きだったんだろう?」と思うような『過去』になりたくない。女々しくて、後ろ向きな自分を知られたくない。  ──『両想い』にがんじがらめになる。  それがダメだと知っているのに止められないジレンマに苛まれる──。  見終わった書類を宮下のデスクまで届ける。 「宮下、出来たぞ。ここの金額だけ新しい価格表が反映されてるか確認して」 「はい。すぐやるので一緒に見てもらってもいいですか?」  三年前は右も左も判らなかった新入社員は、今では貴重な戦力に育っていた。パソコンの画面上で共有された価格表を開く。その少しの待ち時間、宮下はメモ用紙にブルーブラックのインクで達筆な文字を残す。 『今夜、食事に行きませんか』  全ての文字が書き終わる前に嬉しくて頬が緩んでしまう。そんな浮かれた気持ちを隠すように、食事に誘う文字の下に持っていた赤ペンで『OK』とだけ書き込んだ。  開かれたファイルと書類の数字を見比べて問題がない事を確認すると、至近距離で宮下が振り向いて微笑んだ。 「大丈夫ですね。じゃ、あとは会議の後でお願いします」  イケメンと騒がれるきれいな笑顔にドキリとして、カッと血が登る。わざとぶっきらぼうに「おう、しっかりやれよ」と返事をして席を離れた。  大丈夫だろうか、今の俺は変じゃなかったか?  宮下はあくまでスマートなのに、自分がちゃんと上司をやれているか不安になった。  認めたくないけど、俺は十数年振りの『両想い』に今までの自分を取り繕えない程、振り回されている。

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