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第54話
何もなくて良かったと、案外平常心だったと思ったのだけど、気もそぞろな帰り道。
車に乗り込んで、運転しようかと聞いたけれど、あっさり俺が運転しますからと断られて助手席に乗り込んだ。
二人でいる時、特に車の運転中は寡黙になりがちだ。会話がなくても気まずさなんて感じなくて、それが心地よいと思えるかどうかも相性のひとつだなんて思っている。
運転席から、時折ぽつりと投げられる会話に返事をして、こっちも時折会話を振って、また沈黙。普段ならそれがちょうど居心地が良いのだけど、なんとなく沈黙が怖くて話し続けた。
けれど運転中の宮下の会話はそんなに長く続かず、気がつけばいつも通りの静かな車内。ぼんやりと窓の外の景色を見る。
ガラス越しの景色に、見たばかりは壮大の姿が浮かぶ。昔より少し太って、なんていうか人間的な可愛らしさというか愛嬌が増していた。
奥さん……はよく分からなかったけれど、奥さんと子どもと壮大と、どこにでもいる家族だった。あのショッピングモールや公園や、そういう至るところにいる、普通の家族。
きっと、幸せなんだろう。
羨むつもりなんてないけれど、昔の事を思い出した。実際に家族になるなんて難しいけれど、それでも一緒に居たくて一緒に暮らそうって話し合った。ずっと一緒に居られれば、それだけで幸せになれる気がして。
二十代半ばの壮大と、三十歳を過ぎた俺。今思えば人生で一番大きな舵を取る、ちょうどそういう世代。結婚するやつ、したいやつ、壮大の周りにはそういうやつらがたくさんいて、きっと壮大もそういう中の一人だった。
壮大が結婚したい、と思っていたかどうかはわからないけれど、それでも人生のパートナーが欲しいと思っていたのは間違いなくて。
おっとりとして優しい壮大は優柔不断なことも多くて、でもそんな時は俺が手を引いていけばいいと思っていた。そうやってずっと一緒にいられたらいいと――。
それが突然『好きな女が出来た。彼女のお腹に子どもがいる』と告げられて、ショックに言葉を失った。
いつから天秤をかけられていたのか、それとも壮大は優しいから、事故みたいなものなのかも知れないと考えて。本当のところは分からないけど、結局壮大は奥さんと子どもを選んだ。
不幸になって欲しいと願っていたわけじゃない。
その時は、お腹にいる子どもを見捨てるような壮大でなくて良かったと思った。
理性では──。
もし自分の子どもができたら──。
俺はゲイだと自覚していたけれど、自分の子どもができるという可能性はゼロじゃなくて。
……そういうやつは、何人か見てきた。結婚して子どももいるけどやっぱり男の方が好きとか。逆に女に浮気されていたとか。
そのもしもを考えた時、その子を、その子の母親を見捨てたくないと思っていた。
それは自分だけじゃなくて、他人に対しても。
だから壮大の選択は、俺にとっても理解のできるもののはずで──。
でも気持ちは全然追いつかなかった。
追いすがってもダメなんだと、最初から全部諦めた。自分が壮大の立場なら決めたことは翻さない。ただの色恋ならどっちを選ぶって話だけれど、もう二人だけの問題じゃなくなっている。だから自分が引くしかない。
そう思って諦めたけど……。そう思う程、未練がまとわりつくようだった。
俺の腕の中で笑っていた、好きだと言った、その時も壮大の心の中のどこかに、彼女のことがあったのだと知ってしまった。
壮大が比べて選んだ、とは思いたくなかった。思いたくはなかったけど……。別れを告げられたその日も、一緒に目覚めて、朝はキスをして──。
あれは、どこまで嘘だったんだろう。どこまで本当だったんだろう。考えたくないのに、そのことが頭から離れなくなった。
──自分には何の価値もなかったように感じる。
でも、これもよくある失恋だって、わかっていた。
俺にとってそれが初めての失恋なわけじゃない。それこそもっと若い十代の頃の方が恋愛に対して大げさで、失恋ひとつで死んじゃいたいと思うことだってあった。
結局、失恋も経験だ。
その度に泣いて、死にたくなったり、もう誰も好きになったりしないなんて思う。けれどそう思うことにも少しずつ少しずつ慣れていって、その度に潰れそうになるけれど、それで本当に死んだりするわけじゃない。
価値が無いように思えた自分も、時間が経てばそう思ったことすら何でだろう、と思うようになっていく。
……そう思って受け入れたつもりだった。
けれど壮大のあけた穴はだんだん大きくなっていって、ちっとも癒える兆しがない。
心は苦虫をかみつぶしたみたいに、重くてどんよりと曇ったまま。平気だと取り繕っても寂しくて、出会い系なんて使ってみても気が乗らないし、酒を飲んでも楽しくないし、なんだか飯も美味くないし。
あんまり思い出したくもないんだけど、でもあの頃のことって、思い出す程のことが何もない。
じんわりと暗くて泣きたくなるみたいな、苦しくてゆっくりと息ができなくなるみたいな。いつになったらここから抜け出せるんだろうなぁ、って他人ごとみたいに考えていた。
自分のことをわかっているふりして、何にもわかっていなかった。あの時に理解のあるふりをしたのがいけなかったんだと気付いたのは、数年経ってからだ。
そう思えた時にはだいぶ傷は癒えていた。だからって誰かともう一度なんて考えられなかったけれど、悲観するでもなく、ひとりで生きて行こうと思って。
そうやって、ひとりでと思えばそれはそれで気楽だった。幸いにも仕事は嫌いじゃないし、仕事での人間関係も悪くない。親のことを任せられる兄夫婦がいるっていうのも心強い。
ただひとりだと時間はたくさんあって、その時間の使い方を探していた。これと言ってひとつに絞れるような趣味がなくて、楽しいなと思えることを少しずつ試して広く浅くがちょうどいいかな、とか。
それで、ようやくひとりでも楽しいっていうのを思い出しそうな頃、宮下に会ったんだよなぁ……。
ぼんやりと外を眺めていた視線を、運転席の向こうを見るふりで宮下に移動する。
まっすぐ前を向いてハンドルを握る、その姿を見るだけで目頭が熱くなってきて、しぱと瞬きをした。
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