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第75話

 山に積んだ段ボールから必要なものだけを探して取り出し、浴室に向かう。狭い家とはいえ締め切っていた浴室はしびれそうなほど寒くて、戻ってファンヒーターを移動させた。  やっぱり真冬は暖房器具を増やさないと無理かもしれない。今まで使っていたものがあるからと言っても、色々なものがそこそこ入用で、引っ越しってこんなに面倒くさかったっけと思った。  宮下が手伝ってくれているからそんなに苦痛でもなくやっているけれど、一人だったら段ボール山積みのまま何か月も過ごすんだろうな。たぶん俺一人でやっていたら、この段ボールに宮下が書いた「浴室」や「キッチン」の文字だって、わかるだろ、と書かずに後でわからなくなっていそうだった。  便利と思うわけではないけど、いてくれて良かったと思う。宮下がいたから引っ越したわけだけど、あのままあそこでずっと、とは思っていなかった。俺のことだから惰性でずっとはありそうだけれど、年をくってから何かを変えようと思うのは億劫だ。  贅沢にお湯を流しながら、ざっと風呂掃除を済ませてお湯を張る。古いアパートに比べてさすがに色んな機器が新しくて、浴室機能ひとつでも今はこんなことができるのか、と感心した。いろいろボタンを押して見たくなるけれど、それはがまんしてお湯を張る間に寝室を整える。  さほど広くない部屋にシングルのベッド二つを入れたおかげで、眠る以外は何も出来なそうな部屋に放り込んだままの、買ったばかりの寝具を開けた。今まで使ったことのないスプリングのきいたマットレスは、どうしても! という宮下の希望だ。シーツをかけるためにベッドの上に登って、ふわりと心地よく沈む感触に慣れなくて驚く。  そのまま、スプリングの寝心地以外の用途を思わず考えてしまい、ひとりで赤くなった。まあ宮下に言われなくても、たぶん俺が選んだとしてもスプリングのあるものを選ぶんだろうけれど。  それでもそれを恋人が選んだ意図を考えて、つい小さく跳ねてその弾力を確かめてみる。ぐっと沈んだ身体は、同じくぴょんと緩やかに押し上げられた。そのままぽふんとベッドの上に寝転がってみる。  なんていうかホテルのベッドに近くて寝心地がいい。けれど、たぶん使いかってもいいんだろうなと考えると、じわりと身体が期待して、あわてて起き上がった。今考えたことをふり払うみたいに、まだ開けてない包みをひらいていく。  最後に枕にカバーをかけて枕元に置いた。何の意識もせずに二つぴたりとくっつけて並べた後に、すぐに恥ずかしくなってその間を少し離した。ごみになった包装のビニールを片付けながら、ベッドを眺めて点検する。  俺はインテリアに興味がない、というよりあまりセンスがない。服も家具も全部よくわからないから無難に、とえらんでしまいがちだった。宮下はその点わりとなんでも格好がいいというか。持ち物もさりげなく似合うものを持っている。  全面的に宮下のセンスに頼った寝室は、整えてみればシンプルで寝心地の良さそうな空間に仕上がっていて感心した。あっちの部屋でお湯が張れたという電子音が鳴る。  ここのところは、仕事も年度末に向けて段々と気ぜわしくなっていた。それに加えての引っ越しは、大がかりでないにしてもそれなりに大変で。  寝心地の良さそうなベッドに誘われて、ぽふんと整えたそこに寝転がった。  見上げた天井は全然見慣れなくて、右を向いても、左を向いてもセンス良くまとまった空間は、居心地が良い。けれどまだそこに住むというよりは、泊りにきた、みたいな感じがした。  寝返りをうっても、ギシリと音のしない寝心地の良さ。それから、隣接した部屋の生活音も、それなりにあった外から聞こえる雑踏の音もない。もともと田舎ではあったけれどそこから更に離れたせいで、時おり少し離れた幹線道路を走る車の音だけが聞こえてくる。  静かすぎて、家の中を温めているファンヒーターの音だけがしていた。 「……しずか、だな」  ぽつり、と呟いてみたら、その音だけが家の中に吸い込まれていく気がする。なんていうか、静かすぎて落ち着かない。閉めたカーテンのすき間からのぞく景色は、うっすらと夜の気配を感じさせる色合いになってきている。  今日は朝から動いていたから、一日仕事をしたのと同じくらいの時間のはずなんだけれど。だからそんなに疲れてどうしようもないってほどではないはずなんだけれど。  宮下の選んだふわふわとした、ブラウンのベッドカバーが頬に気持ちいい。思わずそれに頬ずりして、ちょっとだけ、と目を閉じる。  静かな家は心地は良いけれど、少し落ち着かなくて。子どもみたいに怖いわけではないけれど、でもやっぱり少しだけ心細いような気がする。  しばらくこの家でひとり暮らしかと思うと、少しだけさみしい。  そろそろ帰って来るかな。  時間を確認しようにも見える範囲に時計はないし、スマホも風呂掃除の前に向こうに置いたままだ。  ぼんやりと、まどのすき間に見える、だんだんと青く染まる茜色の空のかけらを見上げた。  気が付いたとき、部屋の中はうっすらと明るい常夜灯だけがついていた。部屋の中は暖房が効いて温かく、身体の上には二つ折りにされて、布団に包まれていた。  ぼんやりとそこが見慣れない場所の理由を考えた。  そうだ、引っ越したんだっけ……。  首を伸ばして薄暗い部屋の中を見回し、俺が包まった布団の向こう側に、見覚えのあるこたつ布団の大きな塊を見つける。  俺が起き上がると、ゆっくりとベッドが静かに沈む。なるべくそっと覗き込むと、布団を俺の方に折って掛けてしまったすきまに宮下が寝ていた。眠る前にカーテンの間から見上げた空は真っ暗くて、キンと澄んだ星がちかちかときらめいている。  寝ちまったのか。起こせばよかったのに……。  少しだけ、この家で初めての日なのに、と眠ってしまった自分を棚に上げてそう思った。もちろんそれが、宮下の優しさなんだとはわかっているけれど。ふわふわと沈むベッドをなるべく揺らさないよう、そうっと下りて部屋を出る。  寝室の外はもう空気が冷えていて、それなりの時間なんだということが知れた。とりあえず部屋の明かりをつけてトイレと置いたままのスマホで時間を確認する。  テーブルの上には買い物袋の中に入ったままの弁当がひとつ。それからテーブルの下に新しいファンヒーターの箱がひとつ。  宮下が帰ってきた時には俺は寝こけていて、ひとりでここで弁当食べさせたんだと思ったら、申し訳なくなる。時計の時間はまだ真夜中で、まだ二度寝どころか、普通に夜中に目が覚めただけの時間だった。  ダンニングの電気を消してそっと寝室に戻る。寝室の中は空気が温かくて、それでどこか宮下の匂いがする気がして、ほっとする。  宮下のかぶっていたこたつ布団の代わりに、新しいベッド用の布団をかけてその隣にもぐり込む。すこし冷えた俺の身体に宮下がなにか呻いて、それからその胸に引き寄せて抱き込んだ。  狭いベッドで眠っていた時は、そうしていないと落ちてしまいそうになるときがある。それが嬉しくもきゅうくつではあったんだけれど、こうして抱きしめられるとほっとする。  のびのび眠るよりも、こうするほうが安心できる。この家に慣れるまでは、せめて。

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