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弍 狐の本心、子は知らず
「私が帰るまで絶対に家の中に居ること。万が一何者かが戸を叩いても、決して開けてはいけません。分かりましたか?」
「はい。湖白様」
少年――響の良い返事に、湖白は満足そうに頷いて山を下りていった。一人残された響は木で作られた低い椅子に腰掛けて、以前湖白がお土産にくれた石を眺める。つるつるに磨かれた、響の握りこぶし大の黒い石がお気に入りだ。
大抵の食品は自給自足だが、時折調味料や海の幸、日用品、布地等は湖白が山の麓の村まで買いに行く。それに響が着いて行くことはない。連れて行ってほしいと思ったこともない。
響はこの山の中以外の事を何も知らなかった。麓に村があって、人が住んでいるのは知っている。けれど一度も山を下りたいと思ったことがないのは、よく湖白に麓の村や人間達の話を聞いていたからだ。
――山の麓は危険でいっぱいです。あなたに暴力を振るい、怪我をさせる者がいます。あなたに酷い言葉を掛けて傷付けようとする者もいます。或いは、あなたを捕まえて何処か遠い所に売り飛ばしてお金を得ようとするかもしれません。
村は怖い場所で、人間は酷い事をする生き物である。だから湖白は響を守ってくれている。響は物心ついた時から湖白にそう教えられていた。
「湖白様は、村に下りて危なくないのですか?」
幼い頃いつかそう聞いたことがあった。
「私は平気ですよ。人間に化けることができます。それに、人間よりもとても強いのですから」
響が不安になる度、湖白はそう言って目を細めて響の頭を撫でてくれたのだ。初めての留守番は湖白が心配で泣いていたけれど、彼はちゃんと帰ってくる。だから今はもう心配していない。
「今日はどんな人間に化けているんだろう?」
湖白は今まで色んな人間に化けてきた。響は湖白がどんな人間に化けたのかを当てる遊びが好きだ。帰ってきたときに予想した姿を言い、それが当たると果物をくれる。この前は甘くて大きい桃をくれた。
何度もこの遊びをしているうちに、響はちょっとしたコツを覚えた。沢山物を買ったときや重い物、大きな物を買ったときは大人の男に化けている。布地や糸などを買ったときは大人の女に化けていることが多く、菓子や軽くて小さい物を買ったときは子供に化けていることが多い。響は湖白が帰ってくるのを楽しみにしていた。
「早く帰ってこないかなあ」
響にとってはもっと長く感じていたが、二時間もしないうちに湖白が帰ってきた。今日は布地と菓子を持っている。
「ただいま。良い子にしていましたか?」
「はい! 今日は女の人に化けていたんですか?」
「ふふ、残念。今日は大人の男ですよ」
湖白は荷物を食卓に乗せてから、呪いをかけた。湖白の体が白い煙に包まれる。煙が消えると、響の目の前に無精髭を生やした知らない男が立っていた。
「今日はこの格好で買い物をしてきました」
「そっかあ」
「最近はよく当てられてしまうので、少し意表を突いてみたんですよ」
薄い霧が家の中に立ち込め、知らない男は湖白に戻る。
「杏子は夜までお預けにしましょうか」
そう言いながら、湖白は杏子を一つ取ってそのまま口に入れた。響が当てれば果物は響が食べられるが、外してしまえば湖白のものになるのだ。響は残念そうに杏子が入っている湖白の口を見つめる。しかし湖白が
「今日の夕食は魚にしましょう。響、釣りに行きますよ」
と言うと、釣り好きな響はすぐに表情を変え、いそいそと釣りの用具を準備する。釣りは湖白よりも上手い。尤も、湖白が妖術を使えば道具など無くとも魚を手に入れることができるのだが。
「湖白様、早く! 日が沈んじゃいますよ」
「はいはい。行きましょうか」
響が道具を持って駆け足で川に向うのを、湖白は愛おしそうに眺めていた。
川に向かう途中で、何かがガサガサと草を分け入るような音が聞こえた。兎や野良猫のような小動物ではないだろう。もっと大きなものだ。それはどんどん響に近付いてくる。響は湖白を置いて一人で走ってきてしまったことを後悔した。
「確かにこの辺りだった……流石にもう居な――」
独り言を言いながら響の目の前に現れた「それ」は、初めて見た化けた湖白以外の人間だった。
「誰?」
相手の返事よりも早く、冷たい掌が響の両目を覆う。
「湖白様?」
数秒後、湖白の手は離れた。辺りを見回してももう、人間の男の姿は無かった。
「まさかこんな場所に人間が入ってくるとは……」
湖白はいつもより低い声で言う。だがすぐに優しい笑顔で響の頭を撫でた。
「突然人間が現れて怖かったでしょう? 可哀想に。すぐに追い払ったからもう大丈夫ですよ」
「本当に?」
「本当ですよ。今日は釣りはやめましょうか」
「えっ、でもご飯は……?」
湖白は響を抱き上げ、川まで歩く。そして川のほとりにしゃがみ、片手を浸した。暫くすると、数匹の魚が跳ね上がり、自ら響の持つ籠に入っていく。
「わあ、凄い!」
「たまには、こんなやり方も良いでしょう?」
「でも、これならいつも釣りをしなくてもいいですよね……」
湖白はしょんぼりする響を抱き直して笑う。
「まさか。釣りは魚を得る過程を楽しむものでもありますから。それに、自分でこうして獲ったものよりも響が釣った魚の方が美味しいのです」
「えへへ、そっか」
「さあ、帰りましょうか」
「はい」
響は湖白の首にしがみついた。湖白は響を抱えたまま来た道を戻る。だけどその顔が不愉快そうに歪んでいたのを、湖白の肩に顔を埋めていた響は知らない。
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