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参 運命の出逢いは悪意の顕現
響が初めて人間を見てからもう三回目の夕日を見た。その間、響は一度も家を出ていない。湖白も買い物の為に山を下りたり、魚や野鳥を獲りには行かなかった。響が釣りをしたいと言っても、畑の野菜を採りたいと言っても、湖白は頑として許さなかった。
「湖白様、杏子を採りに行きませんか」
「いいえ、今日は家にいましょう。お気に入りの石を入れる巾着を作ってあげますよ」
「じゃあ、明日は?」
「生憎、今夜から雨が降るでしょう。止んだとしても滑ってはいけない」
何度かこのようなやりとりをしても、湖白は首を横に振るばかりだ。
「どうして、ダメなの?」
とうとう耐えられず、響は聞いた。響は畑の野菜の面倒を見るのが好きだ。釣りも木登りも好きだ。鳥を追いかけ野うさぎを追いかけ山を駆け回るのも好きだ。山全体を使って湖白と隠れんぼをするのも好きだ。けれどこの三日間、それらの遊びが全て封じられてしまっている。家の中で湖白とお喋りをするのも、一日中お昼寝をするのも嫌いではないが、やはり外で体を動かす方が好きだった。
湖白は買ったばかりの布を選ぶ手を止めて響を見た。
「家の中の方が楽しいでしょう?」
「でも、外に出たいです」
「響、巾着袋はどの柄の布が良いですか?」
湖白が机の上に色とりどりの布地を並べた。響は暫く悩んでから萌葱色の七宝柄の布地を指差す。けれどそのやりとりで誤魔化される程子供ではない。
「釣りに行く途中で人間を見てから、湖白様ちょっと変です」
「今、何と……?」
聞こえなかったのだろうか? そう思い、響はもう一度同じ言葉を繰り返した。湖白の口元から笑みが消えていくが、外に出たくて必死な響は気付かない。湖白は手で歪んでいく顔を隠しながら、いつもよりも低い声で響の名を呼んだ。
「何ですか?」
湖白の心境を知らない響は良い返事をする。やっとお許しが出るのだと信じて疑わない瞳は輝いていた。けれど、湖白の言葉は響の期待通りのものではなかった。
「もうあの人間の話をしてはいけません。今すぐに忘れてしまいなさい」
「え?」
「とはいえ、すぐに忘れられるものでもありませんから、呪いをかけてあげましょう」
「わっ」
湖白は後ろから響を抱きしめ、大きな手でその顔を覆う。急に眠気が襲ってきた響は、そのまま湖白に持たれかかって眠ってしまった。
響が目を覚ますと、もうすっかり日は沈んでいる。響が眠るまで湖白が抱きしめてくれていたことは覚えていたが、どうして眠っていたのかは思い出せない。取り敢えず起きあがろうと、掛けられていた布団を剥いで湖白を呼んだ。
「湖白様?」
返事は無かった。厨も庭も探したが、湖白の姿は見えない。湖白が自分の知らないうちに家を出ていったのは初めてのことだった。置いて行かれたと思うと急に心細くなって、響は掛け布団を抱きしめる。しかし日は沈みきったとはいえ、眠ってからそう時間が経っていないことに気付き、家を飛び出す。もしかしたらまだ近くにいるかもしれない。響は湖白の名前を呼びながら夢中で山の中を走った。
「湖白様! 湖白様!」
響がいくら呼んでも、湖白は見つからなかった。代わりに、見知らぬ若い男を見つけてしまった。
「そこに誰かいるのか?」
「あ……」
響を見た男の反応から、その男が湖白ではないことはすぐに分かった。その瞬間、響は湖白との約束を破り勝手に家を飛び出したことを後悔する。けれど男の声は優しかった。
「この山に人がいるって珍しいな。あんた、迷子か?」
「え?」
「俺は賢一。この山に棲む化かし狐を見たくてずっと山を散策しているんだ」
「化かし狐?」
「化かし狐のいる山だなんて、初めは半信半疑だったよ。でも三日程前に一瞬見たんだ! 姿を見た瞬間何故か山の麓に戻っていた。すげえおっかねえけど、やっぱりまた見たくてそれ以来何度も山に入っていたんだ」
賢一と名乗った男は朗らかにそう言う。怖いのに見たいという気持ちは響には分からなかったけど、これは湖白に聞いていたよりも良い人なのではないかと思った。
「あんた、名前は?」
「響」
「良い名前だな。俺、あんたに一目惚れしたかもしれない」
「一目惚れ」の意味が分からず、響は首を傾げた。それを見兼ねて賢一が口を開く。
「一目惚れっていうのは、ひと目見て誰かを好きになることだ。俺は響を見た瞬間、何でか目が離せなくなった。それと、今日初めて会った筈なのに『やっと見つけた!』みたいな高揚感があるんだ」
「僕は人間に会ったのは初めてです。でも不思議。何処かで見た事があるような気がします」
「そういうの、『運命の出逢い』っていうのかもな」
賢一はニッと笑った。つられて響の口角も上がる。響に湖白以外の話し相手ができたのは初めてだった。湖白の注意を忘れたわけではないが、もっと沢山話をしたいと思った。けれどその時間は湖白の声で終わりを告げる。
「響、こんなところで何をしているんですか?」
「湖白様!」
探し求めていた相手を見つけ、響は湖白に駆け寄る。けれど湖白にいつもの優しい笑みも抱擁も無かった。響は不審に思って湖白を見上げる。
「折角先日の記憶を消したというのに……何故また響を見つけた? 響を誑かすつもりか?」
「化かし狐……響、あんた知り合いだったのか?」
「気安く名前を呼ぶな」
「うわ⁉︎」
湖白の拳くらいの大きさの真っ赤な火の玉が突然幾つか現れ、賢一を囲んで一気に激しく燃え上がった。
「賢一⁉︎ 湖白様、賢一に火が! 早く消してください! このままでは賢一が火傷をしてしまいます」
「何故? これは貴方に害を与える者です」
「違います。賢一は湖白様が言っていた人間ではありません! 湖白様なら火を消せるでしょう? 早く」
響は湖白の腕を掴み、賢一の方を見て必死に叫んだ。けれども湖白は冷たい目で賢一を見下しているだけだ。焦った響は湖白から離れ、賢一を囲む炎に向かって手を伸ばす。
「響⁉︎」
響が炎に手を突っ込む直前、何事も無かったかのように炎は姿を消した。響は賢一の無事を確認してほっと息を吐く。
「良かった。ありがとうございます。湖白様」
湖白は答えなかった。代わりに響を抱き上げると、突然景色全体が景色が歪み、響は思わず目を閉じる。そして次に開いた時はもう、家の扉の前だった。
もしこの時、山には誰も入っていなければ。
もし響が目を覚ました時、湖白が側に居れば。
もし響が一人で勝手に家を出なければ。
きっと響は何も知らないまま、優しい湖白と何もない日常を過ごしていただろう。
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