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肆 狐の嫉妬はまやかしを生む

 しくじった、と湖白は爪を噛んだ。確かにあの男の記憶を消し、山を追い出した筈だった。響の記憶も消して眠らせた。なのに何故、あの男はまた山に登り、その上響と親しげに談笑しているのか。二人の記憶を消しただけで油断し、響の機嫌を取る為に菓子を買いに行ったのが悪かった。湖白は自分の浅はかさを痛感した。 「どうにかしなければ……あの男を始末してしまうか。いや、あれが死んだところでいずれまた同じような事は起こる。何より響が興味を持ってしまうだろう。嗚呼……今まで響は私だけのモノだったのに。憎い。人間が響を視界に入れるだけでも憎いというのに、響の声まで聞いているとは……よくも私の響を……」 「ん……ぅ」  響の寝息が聞こえ、湖白はハッとして口を閉じる。湖白の本音を響に知られるわけにはいかない。純粋に湖白を信じる響がもし湖白の醜い感情を知ってしまったら嫌われるだろうことは分かっているからだ。  湖白は観察するように響を見る。響は湖白が作った白い狐のぬいぐるみを抱きしめたまま、気持ちよさそうに眠っていた。安心しきった寝顔は湖白の心の内はまだ知らない事を物語っている。 「やはり消してしまおう」  その前に、二度と誰もこの山に入れないようにしなくては。湖白は響の頭を優しく撫でながら計画を立てる。  だが、すぐに響が目を覚ましてしまった。昼間に無理に眠らせたから眠気が飛んでしまったのだろう。湖白の方を見てきょとんとした顔をしている。それがまた可愛らしくて湖白は自然と笑みを浮かべた。 「眠れませんか?」 「はい……ちょっと怖い夢を見てしまいました」 「どんな?」  湖白が聞くと、響は申し訳無さそうな顔をする。こういう顔をしているときは大抵、湖白が死んだり居なくなる夢を見ていたときだ。その度に湖白は響を抱きしめ、永遠に側を離れないと誓う。今晩もまた、いつもと同じように湖白は響を膝に乗せた。  だが、響が見た夢は湖白が予想したものではなかった。 「湖白様が、賢一を殺してしまう夢……」  湖白は自分でも分かるくらい表情が固まった。響の背をさする手も止まる。孤面で隠れている額に冷や汗が流れた。響の本能が湖白の思惑に気付いてしまったのだろうか? 否、そんな筈は無い。響は悪意など知らない子だ。純粋であるように湖白が育てた。 「湖白様は優しいから、そんなことはしませんよね?」 「ええ。あの男が貴方に何もしない限りは、ね」 「大丈夫ですよ。賢一は湖白様が言っていたような人間じゃないんです。湖白様みたいに優しい人でした」  あの人間を庇うような響の言い方につい、湖白の声が低くなる。 「さあ、どうでしょうか? 人間は簡単に嘘を吐き、仲間を裏切りますから」 「湖白様の意地悪」  響は頬を膨らませた。昔から湖白の言葉に不満がある時によくする仕草だ。この顔が可愛くてつい本当に意地悪をしたこともあるが、次の日の朝まで口を聞いてもらえなかった。普段ならばそれもまた愛らしいと思うが、今の湖白には逆効果だ。火に油を注がれたようにメラメラとあの男への嫉妬心が燃え上がる。それを隠し、できるだけ優しい声で言った。 「響。貴方があの男と仲良くすると、私が寂しくなるのです。それにもし、貴方があの男に着いて行ってうっかり山を下りて、人間に傷付けられるかもしれないと思うと……怖いんですよ」 「じゃあ、今度は湖白様も一緒にお話ししませんか? 湖白様も一緒なら安全でしょう?」  名案だというように響は瞳を輝かせた。湖白の感情は大事な部分まで一切伝わっていない。だが、響にここまで信頼されるのは気分が良かった。 「……そうですね。次は是非、私も居る時に会ってください」 「はい」 「さあ、もう眠りなさい。まだ空は真っ暗ですから」 「湖白様、ちゃんと眠れるお呪いかけてください」 「良い子だ」  湖白は掌で響の目を覆い呪文を唱えた。だが掛けた呪いは眠りを誘うものではなく、記憶を消すものだ。これで響の中からあの男は消えた。そのまま響の頭を撫でてやれば、響は次第に微睡んでいく。再び深い眠りにつくまでに時間は掛からなかった。 「さて、やりましょうか」  湖白は響が完全に眠っていることを確認し、山を下りた。行き先はあの男の家である。響の目の前でかけた狐火の術の痕跡を辿れば居場所を探すのは容易い。あの男は小さな木造の家で母と並んで眠っていた。無防備に晒された額に指を当て、響の記憶だけを消す為に術を唱える。  それから、湖白は男達の家を青白い炎で包んだ。ついでにその近辺の家も畑も囲む。 「は、はは……ははははははははははは!」  真っ先に異変に気付いたのは年寄りの女だった。外の異様な明るさと湖白の声に驚いて家を飛び出し、湖白の姿と青白い炎に囲まれた家や畑を見て腰を抜かす。 「ば、ば、化かし狐じゃあ! 化け狐が現れた」  年寄りの女の叫び声に、巣を突かれた蜂のように近隣の住人もわらわらと外に出てきた。 「何故急にこんなことが……今まで何も起こらなかったのに」 「おい、あっちの家の奴等は無事か?」 「水だ! 水を撒け!」 「誰か、助けて! 助けてください!」  響と親しげにしていたあの男が、窓の向こうから絶望的な表情で湖白を見つめているのが見えた。湖白はにぃ……と笑って、更に術を唱える。青白い炎は一瞬だけ橙に変わり、その後一気に紅く変色した。大粒の雨が降り出したというのに、炎の勢いはは全く衰えていない。 「うわぁあああああ」 「ひいいいい、狐様、どうかお許しを……」 「あれが化かし狐……本当に存在していたのか」 「化かし狐め、この儂が退治してやる」  村人は逃げ惑う者、許しを乞う者、憤り退治しようとする者に分かれた。それぞれの必死な反応がひどく滑稽で、湖白は孤面に張り付く髪をかき上げて笑う。 「はははは、ははははははは」  湖白が術を解くと、何事も無かったかのように炎は消え去った。焼け跡は無く、焦げた臭いもしない。全て“まやかし”だったのだ。 「ふふ、はははは!」  湖白はただ狼狽する村人達を眺め、気が済むと背を向けて村を出て行く。 「誰が化かし狐の機嫌を損ねた?」 「誰もあの山には近づくな」  そんな声が湖白の後ろから聞こえた。これでまた山に入る者は居なくなる筈だ。響もあの男を忘れ、あの男も響を覚えていない。今はそれで良い。  湖白の本心としてはあの男の命を奪ってやりたい。もし殺せばきっと村人の恐怖は怒りに変わり、怒りが恐怖心に勝って正義感などというものに変わり、湖白を封じる為に山を踏み荒らす者が増えるだろう。そのような輩が増え、響の目に触れるのだけは避けたいところだ。  それに、湖白があの男を殺したことを知れば、響は湖白から逃げ出すだろう。 「早く帰らなくては……響は一人だと寂しがりますからね」    

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