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伍 悪夢と約束
米が炊ける匂いで響は目を覚ました。響が起き上がったことに気付いた湖白が鍋をかき混ぜる手を止めて優しく微笑む。
「おはようございます、響。昨晩はよく眠れましたか?」
「はい。あれから夢を見ずに眠れました」
「それは良かった」
湖白は目を伏せてもう一度「良かったです。本当に……」と言った。響が悪夢を見て夜中に一度目を覚ましたから心配していたのだろう。
「もうすぐ出来上がりますから、先に顔を洗っていらっしゃい。」
「はい」
響は素直に返事をする。そして顔を洗ってからすぐ外に出た。昨夜は雨が降ったらしいが、今は雲一つ無い晴天だ。良い天気で湖白と隠れんぼをしたい気分だが、着物が汚れてしまうだろう。代わりに何をしようか? 畑の野菜を収穫しようか、それとも歌留多を教えてもらおうか。そんなことを考えながら庭を歩いていると、いつの間にか湖白が隣に来ていた。
「急に外に出ていって、どうかしたんですか?」
「今日は良い天気だなあ、って……でも地面ドロドロだから、今日はあまり外で遊べませんね」
「ええ。滑って転ぶ危険がありますし、汚れてしまいますからね」
さあ早く中へ、と湖白は響の背を押した。湖白の手は不自然なくらい力強く、その勢いで響は思わず一歩前に歩いた。
「ごめんなさい。つい力が入ってしまいました。痛かったですか?」
「いえ、大丈夫です」
湖白は心配そうな表情で響の顔を覗き込んだ。吃驚したのとちょっと体制が崩れただけだったが、湖白は気にしているらしい。響は本当に平気だと言って湖白に笑顔を向けた。そして力いっぱい湖白の手を握る。
「仕返し、ですよ」
「これは痛いですね」
湖白は一瞬驚いた表情を見せたが、ふふ、と笑いながら言った。響はかなり強く湖白の手を握った筈だが、湖白には全く効いていないらしく、平然としている。疲れた響は握る手の力を緩めて、今度は優しく繋いだ。
「湖白様、今日は何をするんですか?」
「そうですね。今日は――」
湖白は慈しむように響を見た。いつもと変わらない湖白だ。響の目の前にいるのはずっと一緒に暮らしている大好きな湖白だ。
その筈なのに何故、昨日は湖白を怖いと思ってしまったのか? きっと湖白の言いつけを破って勝手に家を出たからだろう。賢一の事は忘れ、湖白の自分への想いを知らない響に思い当たる原因はそれしかなかった。
「あの、湖白様」
「何ですか、響?」
「昨日は勝手に家を出てごめんなさい」
響はやっとそれを口にした。湖白は一度真顔に戻ったが、再び笑みを浮かべて響を見る。
「心配したんですよ? もう私がいない時に何処にも行かないでくださいね」
湖白は繋いでいない方の手で響の頭を撫でた。今まで残っていた胸のつかえが消え、響はほっと息を吐いた。
その晩、響は夢を見た。山の中腹辺りで見知らぬ若い男と親しげに話す夢だ。人間に化けた湖白かと思ったが、話しているとそうではなさそうだった。男の首から上は靄がかかって良く見えないのに、響は何故かその男の顔を知っている気がした。男は麓の村の人間で、この山以外のことを何も知らない響に色々なことを教えてくれる。響にとっては新鮮で楽しい時間だった。
だが、話している最中に男の体から火が出たのだ。足元だけが燃えている。
「大変、足に火が……」
男は慌てて立ち上がった。だが、足を振っても手で消火しようとしても消える気配が無い。
「そうだ、川! 川に入れば消えるはず」
響は男の手を引いて川に向かって走ろうとした。だが、響が男に向かって手を伸ばすと、爆発したように一気に炎の勢いが増し、一瞬で男の全身を包んだ。
「うわあああ!?」
響は勢いよく上半身を起こす。それはまるで現実に起きたことのように思えるほどあまりにも良くできた夢で、夢だったと認識するのに時間がかかった。
「夢で良かった……」
「どうしましたか?」
隣に座っていた湖白が声をかけてきた。滅多に眠らないという湖白は、響がこうして夜中に目を覚ましても必ず声をかけてくれる。響は今日も目の前に湖白がいてくれることに安堵した。
「何でもないです。ちょっと夢でびっくりしただけ」
響は湖白に心配かけまいと無理矢理笑った。だが湖白はそれに気付いているのだろう。眉間に皺を寄せて響を見ている。
「また悪い夢を見たのでしょう?」
「はい……でも大丈夫です」
「私を頼る気はないのですか?」
湖白は寂しそうに顔を伏せた。そうではない。ただこれ以上湖白に心配をかけたくないだけだ。湖白だってたまには眠ることはあるだろうに、二夜連続で甘えたらきっと湖白は響を気にかけて今後は眠れなくなるかもしれないと思った。だが、寂しそうな顔を見るのも嫌だ。異なる二つの感情を抱いた響は困ってしまった。
「響、私は響が私に甘えてくれるのが何よりも嬉しいのです。響が私を頼ってくれるなら何でもしますよ」
湖白はそう言って両手を広げた。響はやや躊躇ってから、湖白の胸に飛びつく。心配をかけたくない気持ちは嘘ではない。だが奥底の本音を言ってしまえば、いつでもこうして抱きしめてほしいのだ。湖白がそれに気付いてくれていることも、欲求を満たしてくれることも嬉しかった。
「貴方が私の傍にいる限り、どんな夢を見ても現実で怖い事など起こりませんよ」
「本当に?」
「ええ。だからもう一度お眠り。私が添い寝をしてあげましょう」
湖白は響を布団の中へと誘った。響が横になると、湖白も隣に寝転がる。一緒に寝るのは久しぶりだった。響が一人で眠れない頃、よくこうして一緒に横になってくれたのだ。
「ねえ湖白様」
「はい」
「もし湖白様がいなくなっちゃったら……?」
「そんな事、あるわけないでしょう? 私はずっと響の傍にいますよ。ですから響も、何処にも行かないでくださいね」
「当然です。僕はずっと湖白様と一緒にいます」
そう言って響が湖白の着物を掴むと、湖白は「良い子だ」と響の頭を撫でる。
「約束ですよ。絶対に破らないでくださいね?」
「はい。湖白様こそ」
湖白は目を細めて響を抱き寄せた。
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