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陸 執念対掣肘
「化かし狐の棲む山」の麓にある村の夜中は、他の村と比べて明るい。まるで村全体が呪われているかのように、時折彼方此方で火の玉が出現するからだ。それは狐火、或いは怪火と呼ばれる。悪戯好きの妖狐が発生させたものだ。それは屋内外問わず、人の目の前に突然浮かぶ。まるで何かを見張っているかのようだ。
「というより、牽制されているようだ」
賢一はぐるぐると回りながら自分の後を着いてくる狐火を見た。母や近所の爺さま達は「突然ぼうっと浮かんでいつの間にか消える」と言っていたが、外に出る賢一の元には必ずと言っていい程よく現れるのだ。おかげで母親と幼少期から可愛がってくれた村長以外に賢一に近寄る村人はいなくなった。
それでも、賢一は山を登ったことを後悔してはいない。「化かし狐」に会えたのは賢一にとって幸運だった。三度の飯より珍しいものや怪異の類の話が好きな賢一にとって、化かし狐の噂は退屈を吹き飛ばす存在だ。だが、それ以上に山で出逢った「何か」に大きな衝撃を受けた。しかしそれが何だったのかが思い出せない。動物なのか植物なのか、或いは得体のしれない何かなのか、どんな感想を抱いたのかさえ覚えておらず、むしろ夢か気のせいだったのではないかと思った。夢ならば夢で良いのだが、思い出せないのはどうも気持ち悪い。賢一は疑問や納得のいかないことを放ったらかせず、それに関しては村でも飛び抜けて諦めが悪い性質である。
「何か化かし狐よりも凄いものを見た……気がしたんだけどなあ」
賢一は腕を組んで唸りながら夜道を歩く。時に蒼白く、時に橙に燃えて漂う狐火は賢一にとっては恐怖の対象ではなく、周囲を照らし、燃料の必要ない都合の良い明かりだった。時折それは人の顔になったり、獣の唸り声を上げるが、賢一には些細なことだ。
「日が昇ったらもう一回行ってみようか」
そう決意し、賢一はやっと家に帰った。
「おい、賢一。お前何処に行くつもりだ」
翌朝、手荷物一つ持って山に向かう賢一を村長が遠くから呼び止めた。もう七十を超えた村長の頭は真っ白に染まり体は枯れ枝のように細い。だがその目は鋭く、眉間にはいつも以上に皺が寄っていた。
「まさか山に入るつもりじゃなかろうな?」
「そのつもりですが」
「駄目だ。あの山には近付くな。化かし狐に祟られるぞ。お前は既に化かし狐の怒りを買っているのだ。これ以上踏み入ればこの村諸共滅ぶぞ」
「ですが……」
村長は賢一をぎろりと睨んだ。普段はもう少し穏やかな人だったが、まるで人が変わったように怒り、賢一が山に入るのを止める。化かし狐を恐れるのなら当然だろう。だがそれでも賢一は諦めたくなかった。
「申し訳ありませんが、俺は行かなきゃいけない理由があるんです」
「待て賢一」
賢一は村長の声を無視して走った。
だが、村の外れで再び村長の姿が見えた。賢一が走ってきた道がここまでの最短距離の道だった筈だ。馬を引き連れている気配も無い。
「賢一か。お前はまた山に行くつもりか?」
「さっきも言いましたがそうですよ。それより、いつの間にここに来たんですか?」
「さっき? 儂はもう四半刻はここにおるが……」
村長は怪訝な顔を見せた。困惑したのは賢一の方だ。確かにさっき会って会話をしたのは村長だった。
「もしやお前が会ったのはあの化かし狐じゃねえかい?」
「確かにあの時の村長は様子が可怪しかったのですが……村長に化けるなんて、そんな事ができるんですか?」
「ああ、できるよ。儂も婆さんに化けた狐を見た事があるんじゃ。まだ若いお前は知らないだろうが、お前が生まれる前は頻繁にあった。村人に化けては悪さをしておった。山の中じゃあ酷えもんだったが、村での悪戯は今ほど悪質ではなかった。一発化かしてお終いだったんだがなあ」
村長は何かを思い出すようにこっくりこっくりと頷きながら話した。
「何故この十数年は何もなかったのですか? そして何故また急にあんな事を……」
「知らん。あんな化物には構いたくもねえ。昔は山にきのこでも取りに行った者共が何人も行方知らずになっていたもんだ。自分の縄張りを荒らされたくないんだろうよ」
そこまで喋ってから、それなのにお前は……と言いたげな目を向けてきた。賢一はそれを気にせず質問を続ける。
「でも皆さんがあの山に近寄らなくなったのはもっと昔だった筈です。それでも化かし狐の悪戯はあって、最近までのこの数十年は何も無かったのでしょう? 別の理由があるのではないでしょうか?」
「だから知らねえってばよ」
村長はぶっきらぼうに言ってから、よっこらせと地べたに尻をついた。村長の話を聞いて、賢一の頭の中にはある一つの仮説が浮かぶ。もしかしたら、自分はあの化かし狐が見られたくないものを見たのかもしれない。だから何度でも山で姿を見たと思えば一瞬で麓まで戻され、こんなに見張っているかのように狐火や村長の偽物が現れた。山の中で賢一は確かに何かを見たのだ。それが何であるか覚えていないのもそのせいかもしれない。ならば尚更知らなければいけない、と思った。
「村長、俺行ってきます」
「本当に儂の話を聞いとったのかお前は?」
「聞いていましたよ。でもやっぱりちゃんと確かめたくて。もし俺が帰らなかったら、母さんをよろしくお願いします」
「親不孝者め」
賢一は知らんぷりしてその場を去った。
山に入ってから、賢一は黙々と奥へと進んでいた。もうとっくに昼を過ぎたが、化かし狐の姿は見えず、以前ならばもう既に辿り着いている筈の山頂にも着かない。全く同じ形の木をもう何度見ただろうか?
「これは不味いな」
間違いなく道に迷った。否、迷わされた。今までなら確実に登って下りてこられたのだ。ただの迷子ではない筈だ。もう太陽の方角さえ当てにならない気がする。そんな賢一を嘲笑うかのように、風もないのに木の葉や草が揺れて音を立てた。初めはわくわくしていたが、流石に辟易する。
「あーもう、出てこい化かし狐!」
賢一は空を見上げ、やけっぱちで叫んだ。すると、化かし狐のあの笑い声が空から降ってくる。
おまけに賢一の目の前に合った木から人間の顔が生え、ニタリと笑った――気がした。驚いて一瞬目を閉じた隙に、初めからなかったかのようにそれらが消える。
「くそ……覚えてろよ」
そこまでされると恐怖よりも負けず嫌いが発揮した。賢一は袖で汗を拭ってから、再び山を登っていく。
途中で川を見つけ、川に沿ってその流れに逆らう向きで進む。だが、次第に川の水が増幅し、山道を歩いていたはずの溢れて賢一の足首まで沈めた。その勢いは更に増し、あっという間に膝、腰まで上がってくる。
「落ち着け、大丈夫だ。こんなものはただのまやかしだ。こんなに自然に水が流れてくるわけがない」
このときまでは冷静だった。これだけのものを仕掛けてくるということは、化かし狐に近付いているのではないか? 賢一はそう感じた。時間の問題ではあるが、まだ顔が埋まるほど水面は高くない。賢一はそのまま進んでいく。
だが、幻覚とはいえ、視界が悪く足元が見辛い状況で歩くべきではなかった。あまりにも無謀な行動だ。大きな木の根に足をとられ、体勢を崩す。その瞬間体が全て水の中に沈み、賢一は狼狽した。幻覚だと分かっているが、本当は水の中ではないと思い込もうとしても、呼吸ができない。賢一は無我夢中で足をばたつかせて暴れた。
右も左も分からないまま動き、今度は本当に川に落ちたのだった。石に脛をぶつけた痛みで覚醒し、幻覚が消えた代わりに大きな水飛沫が上がる。
少し流され、辛うじて大きな岩にしがみつく事ができた。
「あの、大丈夫ですか?」
川の下流の方から、可愛らしい少年が走ってくる。その声を聞いた瞬間、ずっと賢一の頭の中にかかっていた靄が消えた。
「ひび、き」
そうだ。賢一はこの少年に会いたくて、危険を顧みず山を登ってきたのだ。
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