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漆 初めての恐怖、初めての反抗

「湖白様、今日は釣りをしに行きませんか?」  朝食を済ませた後、響はそう提案した。最後に釣りをしたのは何かに遭遇し、直前でお預けを食らう前だ。つまりもう一週間はやっていないのだ。湖白が一人で獲ってきた魚も勿論美味しいが、やはり達成感が無い。そもそも、あまり家を離れられない事にも不満が募っていた。  湖白は暫し考えてから「分かりました」と答えた。 「本当に? 湖白様、本当に良いの?」 「ええ。ただし、今日は先に買い物に行ってきますから、良い子で待っていたらですよ」 「はい! 待っています」  本当に許してくれるとは思っておらず、響は念を押すように聞いた。湖白はそれを疎ましがらず、愛おしそうに見下ろしていた。  半刻程経ち、湖白は約束通り買い物から戻ってくると響を釣りに連れて行ってくれた。  川を見た響は興奮して駆け寄る。赤子の頃から山で育った響はどんな険しい山道でも容易く進んでいけるのだ。 「響、危ないですからあまり上流の方へ行ってはなりませんよ」 「はあい!」  響は元気良く返事をして湖白を振り返った。湖白は常に何かを気にするように響の後を着いて来ていた。時折何か独り言を呟いていたようだが、何を言っているのか響には聞こえていない。訊ねたが、響は知らなくて良いのだとはぐらかされてしまうのだ。  湖白が響に追いついてすぐ、上流の方で何かが川に落ちる音がした。遠くの方で水飛沫が上がったのも見えた。響は驚いてそちらを凝視する。 「何?」 「熊か何かが川に落ちたのでしょう」 「大変! 引き上げてあげましょう」 「待ちなさい、響!」 「待ちません。“一刻を争う状況”でしょ?」  湖白が止めるのも聞かず、響は音がした方へと駆け出した。湖白はきっと響を追ってくるだろうことは分かっている。大きな獣を自分一人で引き上げるのは無理でも、響が頼めば湖白は助けてくれる筈だ。何だかんだ、湖白は響に甘いのだから。  だが、川の中で岩にしがみついていたのは人間の男だった。響は一瞬怯んだが、すぐに駆け寄って声を掛ける。 「あの、大丈夫ですか?」 「ひび、き」 「どうして、僕の名前を……」  響は男の顔を見る。そして自分が初めて出会った人間だと気付き、大きく目を見開いた。何故忘れていたのだろうか。湖白が記憶を消したことなど知らない響は忘れてしまったことへの罪悪感でいっぱいになった。だがすぐに賢一を救出しなくてはならないことを思い出す。 「賢一、僕の手に捕まって」 「響!」  響が川に入ろうとした瞬間、湖白は強い力で賢一に差し出していない響の右手を引いた。賢一に届かなかった手が空を掴む。響は後ろに引っ張られた勢いで湖白に背中から衝突した。 「湖白様、どうして」 「ああ良かった。危うく貴方があの男に川に引きずりこまれるところでした」  湖白は態とらしく安堵の息を吐く。頼りにしていた手を掴めなかった賢一はバランスを崩し、今にも流されそうだ。 「化かし狐……」 「湖白様、賢一は川に落ちて溺れてしまいそうなのです。僕はそれを助けようとしていたんです」  響が言っても、湖白は賢一に厳しい目を向けたままだった。まだ腕を掴まれたままの響はどうすることもできず、その場で必死に賢一に向かって伸ばしている。だが響が賢一に近づこうとするほど、湖白はますます響の腕を掴む力を強めた。 「人間は危ないといつも言っているでしょう。何故そんなに近付こうとするのですか?」 「湖白様……腕、痛いです」 「掴んでいないと、貴方はあの男のところに行ってしまうでしょう?」 「だって、早くしないと賢一が……湖白様、賢一は悪い人間なんかじゃないです。良い人なんです。信じてください」 「いい加減にしろ! 私の言うことが聞けないのか!」  湖白はとうとう声を荒げる。その顔を見ると響が今まで見たことが無い程目をつり上げていた。響は恐怖で足の力が抜け、その場にへたり込む。だが、賢一から目を背けることはできなかった。 「じゃあ、湖白様が助けてよ……」 「何故? あの男は何よりも大切な私の宝を奪おうとする。そんな輩を助ける必要は無いでしょう? むしろ――」 「湖白様の馬鹿! 大嫌い!」  響は湖白に向かって叫ぶ。その瞬間、響の腕を掴む手が緩んだ。響は一目散に賢一に駆け寄り、大岩で体を支えて賢一に手を伸ばす。賢一はすぐにその手を掴み、無事川から脱出した。響はほっと息を吐いたが、安心できる状況ではない。案の定、湖白は先程よりも顔を歪めて怒っていた。 「お前のような人間が何故響に触れる? 何故何度記憶を消し、外に追いやってもまた姿を見せる? 何故お前如きが響の心を奪う?」 「……湖白様こそ、どうしてそんなに賢一を嫌うのですか?」 「私の響を取ろうとするからだ」  湖白は響を取り返そうと、掴みかかる。しかしその手は賢一にはたき落とされた。響は湖白に怯え、賢一の背中を盾にするように隠れる。それが火に油を注ぐ行為だと分かっていても、他にどうすることもできない。 「響を怖がらせないでください」 「どの口が言う? お前さえ居なければ響が怖い思いをしなくて済んだというのに。ほら響、早くこちらにいらっしゃい」  響に声を掛ける湖白の口調は元に戻り、少しだけ柔らかかった。だがその目は鋭く、まるで賢一を射殺そうとしているかのようだ。 「今の湖白様は、怖いから嫌です」 「大丈夫です。いつも言っているでしょう? 貴方が私の傍を離れない限り、何も怖いことはありませんよ、と」 「それが、響の自由を奪っているんだろうが!」  今度は賢一が怒鳴った。響がびくりと震える。怖くて、如何すれば良いのか分からなくて、響は泣きたくなった。けれど泣いてしまえば二人は余計に怒るだろう。響にとっては二人共大切で一緒にいたいのに、湖白は響の言葉に耳を貸さず、賢一を悪く言ってそれを許してくれない。そして湖白が響を怖がらせたことを賢一は怒っている。ならば自分は何を言えば良いのだろうか。  いつものように湖白の元に戻れば、湖白はこれ以上賢一を害さないだろうか? それとも賢一を連れて湖白から逃げれば、湖白は賢一を大切に思う自分の気持ちを分かってくれるだろうか?  だが、響にそれを悩む時間は無かった。 「もういい。響を誑かすお前を亡きものにしてしまえば良いだけだ」  湖白は賢一に襲い掛かる。賢一は辛うじて避けたが、鋭く伸びた爪が首を浅く切り、血が流れた。 「痛って……」 「賢一! 湖白様、何て事をするのですか?」 「響、大丈夫だよ。掠っただけだ。それより早く一緒に逃げよう。これ以上化かし狐の傍にいるのは危険だ」  賢一は響の手を取った。 「もう響に触るな!」  湖白は再び賢一を切り裂こうとする。響は咄嗟に賢一を庇うように、その前に飛び出した。

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