9 / 12

捌 迫られる選択

 頬が一瞬熱くなり、後からじわじわと痛みがやってくる。少し間を空けてから、響の頬に短い赤い線が浮かび上がった。響が痛みに耐えて湖白を見ると、湖白は自分の手を見ながら呆然と立っている。 「あ、あ……」  その表情は後悔か悲しみだろうか。湖白は響以上に傷を負ったかのような顔をしていた。 「響、今のうちに逃げよう」 「でも……」 「次は何をされるか分からないんだぞ。あの化かし狐のところにいたら、響は一生自由になれない。俺が助けるから! 行こう」  賢一は強引に響の手を引いて走り出した。響は転ばないよう、必死に賢一に着いていく。後ろを振り返っても湖白の気配は無かった。  だがやはり、響達が山の麓に着く頃にはいつの間にか追いつかれている。 「響を返せ。これ以上、響を傷付けるな。お前のような人間如きが触れて良いものじゃない」 「響を傷付けているのも怖がらせているのもあんただろう。何も知らないのをいい事に、一生響を山に閉じ込めておく気だったのか?」 「閉じ込めるのではない。私は響を守っている。お前がいなければ響は何も知らずにいられたものを……」  湖白は苛立ちを隠そうともせず、忌々しそうに唇を噛む。しかし賢一はそれに動じない。 「それは身勝手な行動だと思わないのか?」 「それはお前も同じだろう。お前が響を手に入れたいが為に村や母親の事も何一つ考えずにこうして響を奪いに来る」 「俺は響が好きだ。初めはただ会いたいだけだった。でも今はあんたから響を守りたいと思っている」  クッ、と湖白が憎悪に満ちた目で笑った。湖白の周囲の景色が禍々しく歪む。あまりの気迫に、響は身震いした。それを察した賢一が優しく響の手を握る。安心させるような賢一の笑顔と温もりに、響はどうにか落ち着きを取り戻した。 「響、貴方に選ばせるのはこれで最後です。私とその男、どちらを選びますか?」  湖白は響に手を差し伸べる。「選ばせる」と口では言っていたが、賢一を選ばせる気など無いだろう。半ば脅しに近い……否、完全なる脅迫だ。賢一がどんな目に合っても良いと言わせるか、自分で賢一を切り捨てるかの選択だと響は感じた。今までの響に甘く優しい湖白の面影は無く、ただ恐ろしい化け物に見える。  だが今は恐怖以上に湖白に対する怒りが沸いた。湖白は少しくらい響の言い分を聞いてくれても良いじゃないか。どれだけ自分を大切に思っていてもここまで賢一を傷付ける必要なんて無いじゃないか。そんなに自分と離れたくないのなら、一緒に来てくれれば良いじゃないか。友達ができて嬉しい気持ちを共有したかった。賢一に好きだと言われて嬉しかった。今まで湖白と二人きりでも楽しかったが、賢一と一緒にいるのも楽しい。どちらも大事で、選べなくたって三人で遊べばもっと楽しいだろう。何故湖白はそれほど賢一を嫌うのか、響には分からない。響は落ちていた木の枝を掴み、「早く」と返事を急かす湖白に向かって八つ当たり気味に投げつけた。 「湖白様の馬鹿! 意地悪な湖白様なんて嫌い」  そう言って賢一を連れてさっさと山を下っていく。湖白の声が聞こえても無視して走り去った。 「ここが村なの?」  響は初めて山を完全に下り、賢一に連れられて村に入った。人が沢山いることに怯え、賢一の肩に掴まって恐る恐る歩く。賢一はそんな響に寄り添いながら手持ちの金をありったけ使って食料を買った。 「響、もう少し歩けるか?」 「歩けるけど、どうして?」 「日が沈む前に遠くに行こう。ここだときっとすぐに気付かれて追いつかれる。村全体が響を助けてくれるとは限らないし、なるべく遠くに行った方がいい」 「分かった」  響はずっと村に居なくていいことに安堵した。湖白に反抗して勢いで飛び出してきたが、村の人間達の視線が怖い。彼らはあまり賢一のことも響のことも良く思っていなさそうだった。湖白がこの村で何をしたのか知らない響は、村人にとって湖白や自分ががどんな存在なのかは知らない。ただ村人達からの険しい視線を感じて、人間は怖いものだというのは湖白が正しいんじゃないかと思った。きっと賢一が例外だったのだ。  賢一に連れられて夜になるまで歩き、家も人の気配も少ない場所に辿りついた。小さな廃屋の中で朝まで休むらしい。響はこの場所が何処なのかは知らない。それでも賢一がいるなら大丈夫だと思った。  賢一は囲炉裏に火を起こす。そして離れた井戸から水を汲んで壊れかけの古い鍋を洗い、水を張って村で買ってきた野菜や肉を切って放り込んだ。しばらくしてから携帯していた味噌を入れた。 「これしかないけど、どうぞ」  賢一は縁の欠けた腕で掬ってから外側を手拭で拭き、そのまま響に渡す。 「箸とか茶碗くらい持ってくれば良かった。そこまで気が回らなくてごめんな」 「賢一は食べないの?」 「腕が一つしか見つからなかったんだ。食べたら後で貸して」  響は汁を一口飲む。味は湖白が作ったものには劣るが、それでも賢一が作ってくれたのが嬉しかった。だがゆっくりと味わっている場合ではない。頑張って冷ましながら急いで食べて腕を洗い、同じように賢一の分を掬って渡した。  食べ終わってから、ぼろぼろの箒で床を掃いて寝転がる。その隣に賢一も横になった。 「ねえ響」 「何?」 「昼間に俺が響のことが好きだって言ったの、覚えてる?」  賢一はごろんと寝返りを打って響の方を向いた。響は肯定の意を込めて頷く。 「忘れないよ。嬉しかったもん」 「じゃあ、どういう意味か分かってる?」  好きという言葉に好き以外の意味があるのだろうかと響は首を傾げた。それを見て賢一が苦笑する。 「やっぱりか。響、俺はね、響に恋をしたんだ」 「恋?」  響は再度首を傾げた。響の知らないものだ。文脈から感情か状態のどちらかだろうことは分かるが、それはどういったものなのか、検討がつかない。 「分かりやすく言うと響のことが大好きで堪らなくて、ずっと一緒にいたくなったり色んな表情が見たくなったり、独り占めしたくなったりする感情。一緒にいるとどきどきして、嬉しくなるんだ。響にはない?」 「ない」 「そうか……じゃあ、響にとって俺は何?」  響は少し迷ってから、友達だと告げる。賢一にとっては違くても、この関係が友達だと教えてくれたのは賢一だったからだ。 「友達か。今はそれでいいや」 「ねえ、湖白も僕を独り占めしたいって言ってた。湖白も僕に恋してるの?」 「どうだろうね? 独り占めしたいからって恋だとは断定できないし、化かし狐のあの執着が恋かどうかは分からない」  響は軽く混乱した。恋とは複雑なものらしい。賢一は起き上がって「でも」と続ける。 「恋かどうかは関係無い。俺は響の傍に居たいし、響を幸せにしたい。響の為なら何処までも響を連れて逃げるよ。もし連れ戻されても何度でも助けにくる。だから俺を選んでほしい」  賢一の表情は真剣だった。だが響は困ってしまう。湖白と賢一、どちらかを選びたいわけではない。二人とも傍にいてほしいのだ。三人で友達になりたいという願いは響の我儘なのだろうか? 恋とはそういうものなのか。  響は怒りに任せて勢いで湖白に嫌いだと言ったことも湖白に木の枝を投げつけたことも、勝手に山を下りてきたことも、後悔として心に重くのし掛かっている。そんなことは湖白から自分を助けようとしてくれた賢一には言えない。けれど今こうして長く賢一と一緒にいて幸せだとも感じている。 「僕は……どっちも大好きだよ」  響には恋というものは分からないが、どちらも好きで大事なのだ。どちらもいなくなってほしくないし、傷付け合っていたら嫌だ。響は大事な人同士が傷付け合っているこの状況が悲しいのだと気付いた。

ともだちにシェアしよう!