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玖 狐の名案

「湖白様の馬鹿! 意地悪な湖白様なんて嫌い」  響に投げつけられた枝を、湖白は避けることができなかった。しっかり着込んだ着物の胸元に当たったため痛みは無い。だが痛いか否かなど、そんなことはどうでもよかった。 響に「嫌い」と言われたことの方がずっと辛い。意気消沈したままその場に突っ立ち、気付けばすっかり日が沈んでいた。 「だから……誰にも見せたくなかったのに……」  湖白は苦しげに呟く。湖白の嫉妬が、憎悪が顕わになってしまえば響が離れていくのは分かっていた。分かってはいたが、抑えられなかった。響が自分以外の者と親しくしているのは勿論、傍にいるのを思い出しただけでまたふつふつと全てを切り裂きたい程の憎しみが沸き上がる。今まで辛うじて抑え込まれていたものが粉塵爆発したように醜い感情を響に晒したのだ。初めて響に声を荒げた時、響は顔を強張らせて怯えた。しまったと思う暇も無く、次から次へとあの男への憎しみの言葉が出てきた。その上、自らの手で響を傷付けた。響の柔らかい頬を引っ掻いた感触は恐ろしい程残っている。  如何すれば良かったのだろうか? もし過去に戻れるのなら、初めから一生家の外には出さないだろう。釣りも畑仕事も鬼ごっこも木登りも教えなければ、きっと響は今のように外に出ることを望まない。だが湖白に時間を巻き戻す力は無かった。  響を取り戻してからあの男の記憶を消せば良いのだが、きっかけがあればまたすぐに記憶を取り戻してしまう。特定の人や物事の記憶だけを封じる妖術は、きっかけさえあれば蜘蛛の巣のように簡単に破られてしまうものだ。 「もう二度とあの男が響に近付かない方法、且つ響が私だけを見てくれるようにしなくては……」  やはり密かにあの男を葬るべきか。そう考えてから、湖白は一つ思い付いた。 「そうだ、私があの男に成ってしまえば良い。そうすればあの男を殺してしまえる。響がもう一度私だけを頼りにしてくれる。嗚呼、何故今まで気付かなかったのか。私はとんだ愚か者だった」  これからのことを想像して湖白は歓喜に震えた。口から溢れた笑い声は次第に大きくなり、遠くの方で身の危険を感じた野鳥が一斉に羽音を立てて飛び去っていく。湖白の周辺の空気は禍々しく澱んだが、それを見る者はいない。 「さて、先ずは響を迎えに行かなくては」  響が何処へ行こうと、たとえ地球の裏側にいてもすぐに見つけることができる。響の着物や草履、飾り紐や小物など、響が身に付ける物は必ずその呪いをかけて作った。それらは響の身に危険が迫ったときに助けるだけでなく、湖白に響の居場所を伝え、湖白をそちらに引き寄せることができる。湖白は一つ息を吐いてから、目を閉じて術を唱えた。  響は麓の村の外れの家にいた。もう何年も人が住んでいない廃れた小さな家だ。外観も内面もあちこちが壊れている上に随分汚らしく、よくもこんな場所に響を連れ込んでくれたものだと、一旦鎮まっていた怒りが再び沸き上がった。あの男は響を自由にするだの守りたいだのと巫山戯たことを言っていたが、その結果響をこんなところに連れ込んだのだから到底許せるものではない。だが、今は響を取り返す方が先だ。  響は布団も無い床に小さく丸くなって眠っていた。湖白は響を起こさないよう、そっと抱き上げる。響は一度身じろいだが、目を開ける様子は無かった。湖白は響を連れて家を出てから、火を放つ。それををふうっと吹けばたちまち家全体に燃え広がった。 「何だ? 燃えてる……響、響は何処に……」  賢一は飛び起きてひどく焦っているだろう。姿は見えないが、声だけでもその様は容易く目に浮かぶ。所詮人間は人間。憎いあの男も湖白からすれば非力で卑小な生き物だ。 「ふ、はは……はははは」  湖白は一人声を上げて笑い、その場を離れた。響が目を覚ます前に帰らなくてはならない。炎の中から響を呼ぶ声が聞こえたが、湖白は響を抱いたまま山に走り帰った。  翌朝、目を覚ました響に、何事もなかったかのようにいつもの微笑みを向ける。響は暫く呆けた顔をしていたが、湖白が声を掛けるといつものように「おはようございます」と返してくれた。だが、すぐに辺りをきょろきょろと見回す。あの男を探しているようだ。案の定、「賢一は?」と聞いてきた。 「あの男は早起きして、今は庭にいますよ」  やはり名前を聞くだけでも不愉快だが、湖白はできるだけそれを隠して返事をする。だが、どうしても眉間に力が入った。それでも響は信じてくれたらしい。賢一を探すために戸を開けて庭に出て行った。  響が庭に出たのを確認した湖白は、静かに術を唱える。体が煙に包まれて賢一の姿になった。それから、音を立てないようにこっそり外に出てから、自分に背を向ける響を呼ぶ。 「賢一?」  響は賢一に化けた湖白を振り返り、笑みを見せた。ほっとしたようなその笑顔は可愛らしく、湖白は今すぐ抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。この笑顔こそ、本来なら湖白だけに向けられるべきものだったのだ。 「良かった。湖白様、賢一も連れてきてくれたんだ。昨日古い家で寝ていたはずなのに、気付いたら自分の家にいてびっくりしたんだけど、賢一は覚えてる?」 「うん。昨日、囲炉裏の火が強くなって火事になったところを化かし狐が助けてくれたんだ」 「そっか、本当に良かった。賢一はいつのまに湖白様と仲直りしたの?」 「それはその、昨夜化かし狐が来たときに……」  湖白は返答に困ってしどろもどろになったが、響は信じてくれたようだ。響は疑うことを知らない良い性格だった。そう育てたのも湖白だ。 「なら賢一もここで一緒に暮らす?」 「いや、もう帰るよ。残念だけどまた来るから」 「そっか」  先程まで目を輝かせていた響は分かりやすい程肩を落とした。湖白は響を慰めるように抱き締める。側から見れば響が他の男と抱き合っているように見えるのは気に食わないが、それよりも響に触れられる喜びが勝っている。響に嫌われたことは湖白が思っている以上に湖白に傷を与えていたらしい。 「大丈夫だよ。いつでも会えるから」 「うん」 「それじゃ、俺は帰るね」 「待って、お見送りしたい」  響は湖白の手を掴む。響から触れてくれたのは嬉しいが、これでは変化を解けない。湖白は迷ってからそっと響の手を下ろし、振り切るように一気に走った。急いで響の死角に回り、木の陰に隠れて変化を解く。そして賢一の姿をした湖白が去った方向を見続ける響に、何食わぬ顔で声を掛けた。 「響、そろそろ戻りませんか?」 「湖白様」 「おや、賢一はいないんですか?」 「さっき帰っちゃいました」 「それは残念ですね。さあ、戻って朝食にしましょうか」  響ははぁい、と残念そうに返事をしたが、大人しく湖白に言われた通り家の中に入る。響の後ろで湖白は笑みをこぼした。

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