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拾 ひどく残酷で悲しい真実
響が湖白と喧嘩してからひと月が経った。
湖白は響を怖がらせ傷付けたことを、響は湖白に嫌いと言って木の枝を投げつけたことをお互いに謝り、今では元通り良好な関係に戻っていた。響の頬の傷ももうすっかり消えている。そしてまるであの日のことは夢だったかのように、湖白は響が大好きな湖白のままだった。相変わらず賢一の話題を出すと良い顔をしないが、湖白が買い物などで出掛けている隙に賢一に会っても、今の湖白はそれを咎めない。今はまだ三人でいることは難しいだろうが、いつかは一緒に遊んだりご飯を食べたりできると思っていた。
けれどどうしてもどこか違和感があるのだ。賢一はともかく、何故あんなに賢一を毛嫌いしていた湖白が賢一の存在を許したのか? どこに落とし所を見つけたのか、響にはわからない。湖白に聞いたが、嫌そうな顔で「私もあの男も、貴方を想う気持ちは同じですから」と言っただけだった。
初めのうちはその言葉を信じきっていた。やっと響の願いが叶ったのだと思っていた。けれど、賢一と会って話す度に会ったばかりの頃の賢一とは違うような気がする。響と会ったばかりの記憶は一部曖昧だし、まだ知り合ってから短く知らない事も多い。けれどちょっとした仕草や話し方が、何処か湖白によく似ているのだ。
賢一は必ず湖白がいない時間を知っているかのようにやってきて、賢一がいなくなってすぐに湖白が帰ってくる。しかも賢一が来る日は決まっていつもよりも湖白の帰りが遅い。互いに情報交換しているのだと言われればそれまでだが、どうしても悪い方に考えてしまう。
「どうしたの響、俺の顔に何か付いてる?」
賢一が心配そうに響の顔を覗き込んだ。今も賢一が遊びに来ている事を忘れ、長いこと賢一そっちのけで考え事をしていたらしい。
「もしかして体調悪い? ごめん、気付かなくて」
賢一は慌てて響の額に触れた。その掌がまるで湖白の手のように冷たい。以前の賢一の手はもう少し温かかった気がする。けれどそれを指摘できる程響は自分の記憶力に自信はなかった。
「大丈夫。元気だよ」
「なら、何か心配事?」
「うん。なんかね、賢一が前と違う気がする」
意を決して響は賢一に告げた。賢一は驚いた顔をしたが、響がどこが違って見えるのかを話すと真剣に聞いてくれる。だが、その表情は次第に険しいものになっていく。
「……その顔、湖白様みたい」
「そうかな」
「うん。賢一と喧嘩していた時の湖白様みたい」
響が言うと、賢一に化けた湖白の顔が悔しそうにぐしゃりと歪む。響は驚愕して目を瞬かせた。その間に元の賢一の表情に戻る。それは一瞬のことで響は気のせいかと自分を疑ったが、賢一のあの顔はやけに鮮明に焼き付いていた。それと同時に、違和感は確信へと変わる。
「湖白様だ……ねえ、湖白様でしょう?」
「響、急にどうしたの? 何のこと?」
賢一は自分の胸元の布を掴んで揺すってくる響に狼狽しながらも、落ち着かせるように抱き締めて背中をさする。
「湖白様なんでしょ? 賢一は何処にいるの?」
「何を言っているのさ? 此処にいるだろ」
「違う、賢一じゃない! 湖白様、本当の事を教えてよ」
響は手を握りしめて賢一の胸を叩いた。本物の賢一ではないと気付いた時から嫌な予感がしている。賢一だと偽る湖白は冷たい手で響を抱き締めたまま頭を撫でるだけだ。響の目から涙が零れた。
「賢一は何処にいるの?」
「いませんよ。もう、何処にも……」
響の頭上からの声が聴こえた。それと同時に賢一の体から煙が出る。煙が消えた頃には賢一の姿は何処にも無く、響は湖白に抱き締められていた。
元の姿に戻った湖白は指で優しく響の涙を拭う。
「どうして、いないの?」
「あんな男は要らないでしょう? 私は誰にだって化けられるのだから」
「湖白様は湖白様でしょ。賢一じゃない。僕は賢一に一緒にいてほしいのに!」
「私よりも?」
湖白の声が低くなった。優しい笑みも消えている。けれど湖白の機嫌など響にとってどうでも良いことだ。それよりも賢一の安否が心配だった。嫌な予感が現実味を帯びてきて、響の心臓はばくばくと鳴っている。無意味な願いだと知らない響は「どうか何もありませんように」と両手を合わせた。
だが当然、その願いは届かない。湖白は無慈悲に賢一の死を告げた。響の体からさっと血の気が引く。
「賢一、が……死んだ?」
「ええ。汚い廃屋と一緒に燃えて炭になりましたよ」
「嘘だ! 嘘ですよね? 僕と一緒に助けてくれましたよね?」
「まさか、良い気味です。私の響を横取りしようとしたのだから、当然の報いでしょう?」
湖白は口元に弧を描いて笑った。その目も三日月形に歪み、妖しく、心底楽しそうな笑みを見せる。自分の為にそこまでやるのかと響は絶句した。まだ信じられないという気持ちが半分、湖白様ならやりかねないという気持ちが半分だ。たちの悪い冗談ならばどれほど良かっただろう。響は自分の体が氷のように冷たくなった気がした。体が上手く動かず、思うように呼吸ができない。
湖白は壊れ物に触れるように響を抱擁する。そして縋るような声で言った。
「私だけの響。もう二度と誰にも見せない。触らせやしない。だからどうか、何処にも行かないでください」
響は返事ができない。否、したくなかった。
湖白は自分の独占欲を満たす為なら響の大事な人の命を奪って良いと思っているのか。響の悲しみなどどうでもいいのだろう。そんな湖白の傍にいて、響に幸福などあるわけがない。響は生まれて初めて憎しみという感情を知った。
「湖白様は最低です。賢一にしたこと、絶対許さない。一生許すもんか! 湖白様なんて……っ」
響は「大嫌いだ」と言おうとして躊躇う。本当は前のように勢いで言ってしまいたかった。だが響はどれだけ湖白が憎くても、本当に嫌いにはなれない。賢一に出逢うまでの湖白はずっと響を慈しみ、愛してくれたのだ。思い出したくないのに、湖白との幸せな時間が次々と頭の中に流れてくる。湖白の本性を知らなかった頃の、優しい湖白まで憎める程響は強かではなかった。
「うわぁああああ」
憎くて、悲しくて辛くて、響はとうとう声を上げて泣いた。赤子のように、言葉にできない感情を叫んで泣いた。滝のように次々と溢れる涙を拭うこともせず、拳で湖白の胸を力いっぱい叩き続ける。湖白はそれを止めるでもなく見ていた。響には見えていないが、湖白の口角は上がったままだ。
響にそこからの記憶は無い。いつもの布団の上で目を覚ましたのだ。湖白が言うには、響は喉が枯れるのも構わず泣き続け、やがて力尽きて崩れ落ちたらしい。
湖白が水を差し出してくれた。響はそれを受け取り、一気に飲み干す。段々と頭が覚醒していくと、賢一のことを考えてまたじわりと涙が滲んだ。
「朝食ができましたが、食べられそうですか?」
湖白が優しい問いかけた。響は首を横に振る。湖白は鍋をかき混ぜる手を止めた。
響はずっと抱いていた疑問をやっと湖白にぶつける。
「湖白様は、どうして僕を独り占めしたいの?」
「貴方の事が好きだからですよ」
「なんで好きなの?」
「貴方が可愛くて可愛くて、愛おしいのです。貴方はいつでも私だけを見てくれる。私に甘えて我儘を言ってくれる。一生懸命私の後ろをついてきて、私の名前を呼んでくれた貴方をどうして愛さずにいられるでしょう」
湖白は愛おしそうに響を見ていた。今の湖白は、賢一に会うずっと前から見てきた湖白だった。これもきっと湖白の本性なのだろう。
「湖白様には友達いないの? 今まで他の人に名前を呼んでもらわなかったの?」
「そんな人……いえ、人でなくともいませんよ」
「じゃあ、寂しかったんだ」
湖白は答えなかった。ただ静かに目を伏せただけだ。響の言葉は間違いではないのだろう。だからと言って全部無かったことにはならないが、響が今も湖白の傍にいる為の明確な理由ができてしまった。
「湖白様のことずっと怒ってるけど、ずっと一緒にいてあげます」
響の言葉に湖白は驚いたように顔を上げる。
「だからもう、悪い湖白様にならないで」
「ええ。貴方が私の傍にいてくれる限り……」
「それ言うのは駄目です」
湖白は困ったように眉尻を下げた。響はつんとそっぽを向く。湖白は暫く言葉に迷っていたが、「分かりました」とだけ返した。その様子を見て、湖白は本当はあまり話すのが上手ではないのだと響は思った。
「やっぱり朝ご飯食べます。お腹が空きました」
響は膝立ちのまま畳を移動して囲炉裏の前に座る。湖白はほっとしたような顔を見せ、味噌汁をよそってくれた。
そしてまた、元の湖白と二人きりの生活に戻る。
響はもう人間と会う事はない。代わりに湖白と穏やかな日々を過ごした。
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