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【番外編】妹は見た!(樹生と翔琉の同棲生活)
滝沢 沙奈絵 は、兄・樹生 の家のチャイムを鳴らし、出てきた男に目を剥 いた。腰にバスタオル一枚巻いた半裸の、見知らぬ男だったからだ。
短い黒髪から、拭き切れていない雫が所々垂れているから、風呂上がりなのだろう。百九十センチはあろうかという長身で、筋骨 逞 しい。太い眉と奥二重の切れ長の瞳が凛々しい美男子だ。
「あっ、樹生 ……さんの妹さん? ですよね? 今、起こしてきますんで、よかったら、リビングで待っててください」
約束した時間に兄の家を訪ねたら知らない男が半裸で出てきたことに、目玉が飛び出しそうに驚いた沙奈絵だったが、男のほうは、半裸を見られたことに動じた様子もない。彼はリビングのソファを手で指し示すと、寝室と思しき部屋に入って行く。ボソボソ話し声がしたと思ったら、ガタガタ、ゴソゴソと音がして、寝乱れた髪にとりあえず引っ掴んだ普段着を羽織った風情で、樹生が慌てて出てきた。
「沙奈 、ごめん。今日は仕事休みだと思ったら、寝過ごしちゃった」
手早く電子ケトルに水を注いで、紅茶を淹 れる支度をする樹生の後ろ姿に目をやると、Tシャツの襟から伸びた細い首筋に艶 かしい紅い跡が覗いている。襟のある服を着れば隠せそうな場所ではある。
(本人も気付いてないってことは、昨夜こしらえたってことよね……。まぁ、聞かなくても、あんな気だるげで色っぽい雰囲気漂わせてたら、『あぁ、昨夜はお楽しみだったのね』って分かるけど)
前回、兄を間近でしっかり見たのは、いつだったろうか。盆と正月には実家で顔を合わせるが、関東だから日帰りで解散するのが通例だ。両親の前で、数時間しか顔を合わせるだけでは気付かなかったが、今の兄からは、たった数分見ただけでも分かるほどの色香が漂っている。……その原因は、さっきの男に違いない。
紅茶をお盆に載せて出してくれた樹生は、微妙にバツの悪そうな表情を浮かべている。沙奈絵は、ハアとひとつ溜め息をつき、兄に助け船を出した。
「あの男の人、なんて名前? 何してる人なの?」
彼女の質問が意外だったのか、樹生はポカンと口を開けている。そこまで言わせるかなぁ、とばかりに、もう一つ溜め息をついて沙奈絵は言葉を重ねた。
「あの人、お兄ちゃんの彼氏なんでしょ?」
家に来て五分足らずの妹に見抜かれ、樹生は頬を真っ赤に染めた。
「え、な、なんで……」
「大丈夫。私、昔から、お兄ちゃんは男の人が好きなんだろうなって、何となく気付いてたから。そんなにびっくりしてない」
沙奈絵は、ティーセットを膝の上に置き、優雅な手つきでカップを口元に運んだ。
「んー、やっぱりお兄ちゃんの紅茶、お母さんのより美味しいー」
「いつから、気付いてたんだ?」
樹生は少し緊張気味にカップの取っ手を握りしめている。
「ハッキリ分かったのは、高校生くらいの時だけど。その前から何となくね」
「十年以上前から気付いてたのか……」
呆然とする樹生に、沙奈絵は苦笑した。
「そりゃ、気付くわよ。『沙奈のお兄ちゃん、カッコ良い。紹介してよ』って、私の友達にしょっちゅう言われたのよ? それくらいモテたのに、誰か紹介しようとしても全然気乗りしてなかったし。かと言って家に彼女を連れてくるでもないし。部屋にはイケメンの男性スポーツ選手のポスターなんか貼ってたもんね。普通、その年頃の男子なら、女性アイドルとかじゃない?」
悠然と紅茶を味わう妹を、樹生は、衝撃冷めやらぬ表情のまま見つめる。
「……気持ち悪いって思わなかったのか?」
「ううん、全く。だって、こっちはずうっとお兄ちゃんと一緒に育ってるんだもん。『ふうん、お兄ちゃん、そうだったんだ』くらいにしか思わないわよ」
身支度を整えた先ほどの男が、おずおずとリビングに入って来た。ドアの外で様子を伺い、この辺で名乗るべきだろうと判断したようだ。
「先ほどは、あんな格好で失礼しました。岡田 翔琉 と申します」
「こちらこそ、改めて初めまして。樹生の妹の沙奈絵と申します。……岡田さんて、お幾つですか? それと、失礼ですけど、お仕事は何をされてるんですか?」
「年齢 は、二十五です。社会人バスケの、東菱 電機のチームに所属してます。以前、怪我をした時に、病院で樹生さんにお世話になりまして」
翔琉の氏素性を確かめ、沙奈絵は、得心した様子で頷いた。
「私よりひとつ若いんだ! バスケ選手ね……、どうりで良い体格」
「俺、まだ頼りなく見えるかも知れませんけど、樹生さんのことは大切にします。理学 療法士 として、患者の俺のリハビリにも親身になってくれたんですけど、それだけじゃなくて、個人的な悩みも見抜いて慰めてくれたりとか。そういう優しいところに惹かれて、俺の方から告白したんです」
前のめりな翔琉に、沙奈絵は一瞬呆気にとられたが、彼の真剣な表情に頬を緩め、コロコロと嬉しそうに声を立てて笑った。
「そうなんですね。確かに、うちの兄、自分からグイグイ行く性格じゃないから。岡田さんみたく、引っ張ってくれる人で良かったのかも」
「ちょ、沙奈! 余計なこと言うなよ!」
沙奈絵の言葉に紅茶を噴き出しかけた樹生は頬を赤らめ、彼女を窘 めたが、沙奈絵は気にせず、樹生の隣で俯き、笑いを噛み殺している翔琉に話し掛けた。
「岡田さん。兄は、ちょっと素直じゃないところもありますが、すごく優しい人です。よろしくお願いしますね?」
「は、はいっ……!」
樹生とそっくりな妹に兄をよろしくと託され、嬉しくて緩みそうになる頬を引き締めて、翔琉は深く頭を下げた。
「もう、何だよ。二人して……。良いけどさぁ」
照れ隠しにブツブツ呟きながら、樹生は立ち上がった。すかさず翔琉も席を立ち、キッチンの上の棚からホットプレートを出してきた。
「あ、お昼、お好み焼きにするよ」
「嬉しいー。お兄ちゃんのお好み焼き、美味しいんだよねー」
沙奈絵もさり気なく席を立ち、樹生の斜め後ろに立つ。
「私も何か手伝おうか?」
「……ん。じゃあ、冷蔵庫から、エビと豚肉出してくれる? で、この生地混ぜて」
後ろで、翔琉は食器を並べている。沙奈絵は、冷蔵庫から頼まれたものを出して、再び樹生に近付きながら、そっと囁いた。
「お兄ちゃん。首の付け根、背中側に、キスマーク付いてる」
ガバッ! と音がしそうな勢いで振り向いた樹生は、首を押さえて真っ赤だ。
「やだ。刃物振り回さないでよ、危ないじゃない。今は私しか見てないから良いけど、外に出る前には着替えた方が良いわよ」
ニヤリと沙奈絵があくどい笑みを浮かべると、樹生は無言で寝室に駆け込んだ。
「……あれ? どうした?」
寝室に消えた樹生の後ろ姿に、キョトンと翔琉は首を傾げている。沙奈絵は敢えて知らんぷりを決め込んだ。戻って来た樹生はハイネックのカットソーに着替え、赤い顔のまま翔琉に詰め寄る。
「……翔琉、僕の首に跡付けたろ。妹が来るから、そういうのやめてって言ったのに」
「えっ、だから、シャツ着たら見えない場所にしたんだけど」
「なんで、わざわざ、そんな際どい場所に付けるんだよ! そもそも、跡、付けるなよ!」
「だって、樹生が気持ち良さそうだったから」
「バカッ」
二人は声をひそめているつもりなのだろうが、それほど広い家ではない。恋人同士のイチャイチャは沙奈絵の耳にも筒抜けだ。これ以上話が際どい展開になるのは、さすがにいたたまれない。わざとらしい咳払いで、二人の会話を遮った。
「お兄ちゃん。生地は混ぜたし、豚肉とエビは、いつもの感じに切っておいた」
「……ありがとう」
沙奈絵から受け取ったボウルは、すぐに翔琉に手渡される。翔琉は手際よく生地をホットプレートに流し、簡単に形を整えた。
「へえー、焼くのは岡田さんの係なんですね?」
「ええ。俺、料理あんまり上手くないんですけど、焼くのだけは樹生さんから合格点貰えてるんス」
無邪気な笑顔を浮かべると、翔琉は、年相応どころか、やんちゃな少年ぽくもある。沙奈絵は内心深く頷きながら、グラスに注がれたビールを口にしながら、チラリと横目で兄を見た。樹生はリラックスした表情で、甲斐甲斐しく翔琉にビールを注いでやっている。
(なるほど。これは、お兄ちゃんが惚れるわけだわ……。昔からイケメンのスポーツマンが好きだったし。しかも、岡田さんは年下でやんちゃで、可愛くて仕方ないんでしょうね)
「お二人は、付き合って、どれくらいになるんですか?」
澄ました顔で、沙奈絵は二人の馴れ初めを聞き出していく。ターゲットは翔琉だ。
「半年ちょっとですかね? 一緒に住むようになって、まだ三か月くらいですけど」
「あらぁ。もう長く付き合ってそうな、落ち着いた雰囲気なのに」
「そうスか? へへっ。知り合ってから、付き合い始めるまで、一年弱掛かりましたからね」
「更に意外! 岡田さんイケメンだし、すぐ告白したのかと思ったー!」
弾んだ高い声で持ち上げると、アルコールが少し入っているからか、翔琉の舌は滑らかだった。
「いやー、知り合った時は、俺、彼女いましたし。実は男の人と付き合うのは、樹生さんが初めてなんで。最初は、友達として好きなのか、恋愛の『好き』なのか、自分でもよく分かんなくてモヤモヤしました」
「えー、じゃあ、どういうキッカケで、付き合おうって流れになったの?」
興味津々といった表情を作って沙奈絵が上目遣いで見詰めると、翔琉は一瞬、隣の樹生の表情を窺った。樹生は素知らぬふりで、ビールを口に運んでいる。
「……これ、言って良いのかな? 樹生さんの元カレも、社会人バスケの選手なんスよ。俺が樹生さんと仲良くしてるの見て、そいつ、嫉妬して、付き合ってた時のこととかゴチャゴチャ言ってきたんすよ。俺、ブチ切れて、試合中なのに、そいつのことボコボコに叩きのめしたんですけど。それで『あぁ、俺、樹生さんのことが、恋愛の意味で好きなんだ』ってハッキリ気付いたっていうか」
頭を掻き、大いに照れながら打ち明ける翔琉の横で、樹生は頬を染め、そっぽを向いている。自分が招いた事態ではあるが、目の前の二人のラブラブっぷりに、沙奈絵は、某大物司会者のように椅子から転げ落ちたい気分だった。新婚カップルを弄る某テレビ番組ならば、更に二人の夜の生活についても突っ込むところだが、もう、そちら方面は、樹生の首筋の艶めかしい紅い跡と、それを巡る二人のやり取りでお腹一杯だ。既に沙奈絵は戦意を喪失していた。
「よく分かったわ……。お二人がラブラブだってことが」
「やだな、そんな。ラブラブだなんて。なぁ?」
翔琉は、横の樹生を覗き込むも、樹生は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆っている。そこは敢えてスルーだ。
「お兄ちゃん。私の今の彼氏、学生時代バスケ部だったの。
『東菱電機の岡田 翔琉って知ってる?』
ってメッセンジャーしたら、秒で返信来たわ。
『知ってるも何も、大スターだよ』って。
『うちの兄の彼氏が、その岡田 翔琉さんらしいんだけど』って返したら、『今度会わせてくれ。ていうか、まずは今日の写真を送れ』だって。
そのうち四人で会いましょう? あと、今日の写真撮って良い?」
「あっ、じゃあ、俺がシャッター押しましょうか。……へえ、沙奈絵さんも彼氏が元バスケ選手っスか。楽しみだなぁ」
案じていた兄が優しい恋人を得て嬉しそうに微笑む沙奈絵と、学生時代憧れのスターだった翔琉、そして、沙奈絵に瓜二つの顔立ちのうえ、恥じらって少し目が潤んだ樹生の3ショットに、沙奈絵の彼氏が色んな意味で「ウグッ」と赤面したのは、また別の話である。
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