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【2】15
トイレの前の静かな廊下で、黒部は妙にはきはきと喋る。今だれかが来たらどうなるのだろう。しかし妙な自信があった。この場にはきっとだれもこない。いや、来れないだろう。俺でさえ、緊迫したふたりのあいだへ入り込めずにいるのだから。
「伊勢さんってかわいいですよね」
「は?」
と、不機嫌を隠さず返したのは高岡さんだった。
「純粋っていうか、汚れない感じ? ちょっとぬけてるし、わかりやすいし、鈍感だし。かわいすぎて食べちゃいたくなるっていうか」
「……」
「でも本当に食べちゃうタチの悪い人がいるとは思わなかったですけど」
自分の話をされている。まぎれもなく。「イセ」という名前も耳に入ってくる。それでも、湧き上がる言葉が自分に向けられているとは思えず、実感がなかった。黒部の言葉はソーダ水の気泡みたいに、実態のないものとして膨らんでいた。
「ゲイならゲイらしくそういう人たちと遊んでたらいいじゃないですか、伊勢さんに手ぇ出す必要なかったでしょ?」
言葉の行き先が俺ではなく高岡さんに向かったとき、はじめて気泡がはじけた。黒部のふかい色の瞳の中には、悪意がつまっていた。
「いきなり男に告白されて身体触られて、気持ち悪いに決まってるじゃないですか。それを強引に自分のものにして満足なんですか?」
黒部は俺の代弁をしている、らしい。はじめのうち、本当になにを言っているのかわからなかった。けれどそれが「黒部なりに噛み砕いた俺の気持ちを、高岡さんに伝えている」と気づいたとき、頭が熱くなるのがわかった。
「そもそも高岡さ」
黒部がさらになにか言葉をつづけようとした。俺はそれを阻止したかった。しかし手段が思いつかなかった。俺はもっともわかりやすい手段に出ていた。
「おっ、まえっ!」
言葉をさえぎるように黒部につかみかかったが、勢いに反して声は情けなく裏返っていた。ちくしょう、喧嘩なんて慣れていないのだ。それでも突き上がる感情を、爆発させるほかなかった。
「いい加減にしろよ!」
頭より先にくちびるが動いていた。
「俺と高岡さんのあいだの話なんだよ、お前にエラソーに言われる筋合いねぇんだよ!」
後輩の胸ぐらをつかみ怒鳴りつけながら、なぜか脳内は妙に冷静だった。いやそもそも俺のほうこそ、黒部を叱りつける権利などない。俺がはじめから適切な距離をとっていれば、黒部は調子づいた発言などしなかっただろう。
わかっているのにそれでも、黒部が故意に高岡さんを傷つけたという事実だけで、言わずにはいられなかったのだ。
「お前には関係ないだろ!」
黒部は俺がつらいのではないかと心配する。そして俺の代弁をしてくれる。しかしそれは、俺にとっても高岡さんにとっても必要のないものだ。まったく。
黒部は圧倒されたのか何も言わないままでいる。俺のくちびるはいまだ震えていた。まだ言いたいことは山ほどあった。どうにかこらえ、黒部以上におどろいて立ちつくしている高岡さんを見た。
「……行きましょ」
高岡さんの手を握って黒部に背を向け、そのまま歩き出した。
後輩につかみかかるという子供じみた手段に出た自分を反省した。けれど頭には痛みをともなった熱さが残り、もっと言ってやれば良かったとさえ思っていた。
階段を下り誰もいない棟を抜けだし、広いキャンパスを手をつないだまま歩いた。手をつないで歩く俺達を遠巻きに見て、見知らぬ女子がなにかささやいてるのが視界に入った。高岡さんが気まずそうにつぶやく。
「……見られてるみたいだけど」
「いいですよ別に」
「よくねぇだろ」
高岡さんは右手のちからをゆるめた。自然にほどけるようにしむけたのだろう、俺を思って。だからこそ、力をいれて握りしめたのだ。
黒部に「高岡さんとの関係を公言する」と脅されたとき、あんなに恐ろしかったのに。他人に関係がばれることなど考えたくもなかったのに。しかし今、手をつないで歩きながら、それで噂をされたって構わないと心から思っている。
「……離さないでください」
自分でも驚くくらいに、あまりにも儚いかすれ声だった。本心からの願いは、こんな風に響くのか。ごまかすため、指先にさらに力をこめた。
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