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【2】18

「おー、おかえり。早かったな」 玄関ドアを開けた瞬間、油のはねる音とガーリックが焦げていくいい匂いがたちのぼった。高岡さんはキッチンでフライパンをふるっている。それはしあわせの象徴のようだった。はちきれそうな思いを抱えて帰宅した家は、日常そのものだった。拍子抜けするくらいに。 「夕飯パスタでいい? 米なくなっちゃってさー、買ってくんのも忘れちゃったんだよ。あした買ってくるから」 「……」 「トマト系でいい? あーそうだチーズもいれるか」 「……」 「ん、伊勢ちゃん?」 いつも通り喋り、いつも通り夕食を作ってくれる高岡さんを見ながら、俺はぼんやりと放心していた。こうした風景を、手放しに安心して眺めたのはずいぶん久しぶりであった。その事実に呆け、靴を脱ぐことも忘れて玄関スペースに立ちすくんだまま動けなくなってしまう。 そんな俺を不思議そうにふりかえる高岡さんの表情を見て、ようやく我に返った。 「あ、た、ただいま」 「うん。おかえり」 その目は優しかった。目がかち合うなり、凍結していた状態から本来の熱を取り戻すことができた。靴を脱いで、料理にとりかかる高岡さんの横に立ち手元をのぞきこんだ。タマネギやトマトを炒める手付きが、相変わらず慣れている。 「……今日、黒部に謝られました」 「あぁ、俺も」 「なんて言われました?」 「まあなんつーかな、嫉妬してるんだみたいな……あいつ結構真面目なやつだよな」 高岡さんは笑っていた。フライパンの中で踊る野菜を見おろしながら、子供の失敗を許すように。意外だった。 「お、怒んないんですか」 「え、うん。まあ、あいつに言われたことで色々考えるきっかけになったっていうか……、俺自身もけっこう、二人の関係について怠惰になってるとこあったし、なんつうか……」 しぼんでいった言葉は油のはねる音にかきけされて消えていった。きっと言いたいことは色々あるだろう。黒部に対して、俺に対して。 「あいつも色々苦労してるみたいだからな……」 ひっそりと響いた言葉は、高岡さんの闇と光の両方を抱え込んでいた。もしかしたら高岡さんは、黒部の幼い言動の先に、共感できる部分があったのかもしれない。 ふいに高岡さんが、何かを思い出したようにふふ、と笑った。 「つーかあいつ本当に伊勢ちゃんのこと信頼してんだな」 「え、なんか言われたんですか? なんて言ってました?」 「いや、それは内緒。男同士の秘密」 「いや俺も男なんですけど!?」 「本当に羨ましがってた。伊勢さんの彼氏になれるなんて! って」 自分で聞いておきながら、なんとなくむずがゆい気持ちになった。二人でどんな話をしていたのか気になるような、絶対に聞きたくないような不思議な気持ちだ。 「俺はじめて人に自慢したわ。おれ伊勢ちゃんと毎日いちゃいちゃしてんだよー、いーだろ、つって」 「えっそんなこと言ったんですか!? なにしてんですか!」 「いやあだってさ、やっぱ黒部の言ってることは正しいんだよ。俺みたいなのが伊勢ちゃんと付き合えるわけない」 ふいに表情に影が落ちる。高岡さんはこんな風に唐突に、悲しげな顔をするから俺はいつも焦ってしまう。しかし今日の高岡さんは、そこから鬱に呑みこまれていくわけではなかった。力強い足で立ち、俺を振りかえった。 「だからさ、伊勢ちゃんにはほんとに感謝してるよ」 「……」 「それから、黒部が出てこなかったら俺、伊勢ちゃんが隣りにいるのが当然だって思いながら生活してたかもしんない。だから悔しいけどまあ、あいつにも感謝してるって言えるかもな」 高岡さんが胸のうちをぽつりぽつりと語るとき、空気がまるくやわらかくなる。まるい空気の中の高岡さんは、柔らか表情を浮かべている。 「ほんとですか高岡さんそれ……ちょっと無理してませんか?」 「ああうん、ちょっとカッコつけてるかもな。実際はまじで死にそうなくらいへこんだしな」 「……」 「でもだからって、いつまでもネチネチ言うのおかしいだろ」 高岡さんはフライパンを動かしながら、自嘲気味に笑った。死にそうなくらいへこんでしまう自分を責めるみたいに。はじめて見るほどに、たくましい横顔だった。 「……っていうか、付き合ってくれる、って言い方へんですよ」 「そう?」 「俺は、俺が高岡さんのこと好きだから付き合ってんだし、そんな高岡さんが卑下する必要ない……」 先ほどの高岡さんと同じように、俺の言葉もしぼんでしまった。つまり俺は高岡さんのことがすきなのだからもっと自信を持っていい、と言いたいのだけれど、いかんせん俺にその言葉を口にする自信がない。 うつむきがちに、歯切れの悪い言葉をつむいでいると、ふいに首の後ろをつかまれた。がしっと音がしそうなくらいに。大きな掌の動きに驚いて顔を上げると、すかさず高岡さんに唇をうばわれた。目を見開いてしまう。高岡さんは幸せそうに笑っている。 「ちょ、ちょ、いきなりなにすんすか」 「すき」 「あっちょっとトマトついた箸振り回さないでくださいよどーせ掃除すんの俺なんだから!」 「あーすいませんすいません」 床に飛んだ赤い斑点を見おろしながら精一杯怒ったふりをする。しかし本当はなんだっていいのだ。床が汚れようがなにしようが、高岡さんが幸せならそれでいい。

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