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第2話

 三浦は次の日、本当にカフェほしみやへ来店した。 「あれ? 三浦くん? 久しぶりね!」  ホールで三浦の対応をしている理華の甲高い声が店に響く。それは厨房にいた晴人のところまで聞こえてきて、晴人の心臓は小さく跳ねた。  三浦の、ご無沙汰しています、というような声が聞こえて、すぐに会話は晴人のところまでは聞こえなくなる。  今、晴人は厨房にいるから三浦の対応は理華がするだろう。少し罪悪感が募ったが、厨房から出ていくつもりはない。  三浦が嫌いなわけでも、悪いわけでもない。あまり心を乱されたくないのだ。  少し残っていた洗い物をしたり、余分に野菜を切ったりして、忙しいふりをしながら理華を待つ。  すると、しばらくして、三浦の注文を受けた理華がやってきた。 「晴人、三浦くん来てるよ、ほらアンタが警察辞める前に一回だけ家に来てくれた子」 「うん、昨日店に来てくれたんだよ、例の車の話。春から藤白署に配属になったんだって。それで、三浦くんの注文は?」  余計な会話を終わらせ、聞きたいことだけを尋ねる。  「サラダうどん、麺は大盛り。もうお昼は三浦くんで終わりだし、アンタも自分の分を作って、お昼一緒に食べちゃえば? まだでしょ?」  姉の予想外の言葉に晴人は咄嗟に断ろうとした。 「えっ、いや、野菜とか切りたいし……」 「いいじゃない、それぐらい私がやっておくわよ。テーブルの上にアンタの分の箸と水も用意しておくから」  理華は自分の言いたいことだけを言うと、さっさとホールに戻ってしまった。そして本当に三浦の席に晴人の分のコップと箸を置いている。  また二人が何事か話している。言葉までは聞こえてこない。厨房から二人の様子をそっと伺っていると、三浦が嬉しそうに笑ったのが見えた。  それを見てため息をつく。このまま厨房に籠っていたら、おかしな雰囲気になるだろう。姉にも何か言われるかもしれない。  理華には三浦から告白されたことは言っていない。だから元同僚が久しぶりに晴人に会いに来てくれた、という感覚なのだろう。  ため息をついた後、晴人はサラダうどんを二人前作り始めた。一つは麺を大盛りにして、自分の分は小盛りにする。そこまでお腹は空いていない。  冷やした麺の上にたっぷりのレタスをのせて、細く切ったきゅうり、半分に切ったミニトマトを見栄えよく散らす。少し考えた後、半熟の茹で卵を一番上に置いた。普段、サラダうどんに半熟の茹で卵はつかない。  三浦はおそらく非番だろう。当直明けで疲れている中、店にまで足を運んでくれたのだから、サービスした方がいい。  そして麺つゆとマヨネーズで作ったタレをかけて完成した。  エプロンを外し、椅子の上にかける。そして出来上がったサラダうどんふたつをトレイに乗せ、三浦の席の方へと歩いていく。 「いらっしゃい、来てくれたんだね」 「あ、星宮さん!」 「俺もご飯一緒にいいかな? 姉がごめんね」 「いえいえ、とんでもないです。星宮さんのご飯がまた食べられるなんて嬉しいですから」 「ありがとう、これ大盛りが君の分ね」 「ありがとうございますっ、美味しそうだ。あ、卵がついてる」 「卵はサービスだよ」  小声でそう言って、三浦の向かいに腰を下ろし、晴人もテーブルにつく。  振った人物と共に食事をするのは少し緊張する。それにその日から連絡もしておらず、昨日再会しただけだ。しかも昨日は大した会話を交わしていない。 「いただきますっ」 「いただきます」  二人で手を合わせた後、食事を始める。  何口か食べた後、晴人はあることに気がついた。 「あれ、三浦くん、野菜嫌いが直ったの?」  話しかけられた三浦は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに恥ずかしそうに顔を赤らめた。 「あ、えっと……そうですね、直りました。もう今は野菜は食べられます、生でも」  まだ晴人が警察官だった頃、三浦は野菜、特に生野菜が食べられなかった。それに対して、健康に悪い、と言って注意したこともある。 「星宮さんが作ってくれてた夜食のおかげです」  それを聞いて、ちくりと胸が痛んだ。  三浦が言っているのは、警察官時代、休憩時間に晴人が作っていたちょっとした夜食のことである。  交番に勤務する地域警察官の夜勤といえば、休憩や仮眠はあるものの、朝方まで起きていることは当たり前。夕飯を大体午後七時くらいに摂っても、午前二時、三時となれば腹が空くのが当たり前だ。  しかし手軽に食べられるものと言えば、カップラーメンくらいしか交番には用意されていない。深夜帯、朝方近くになってそういうものを食べると、罪悪感が募るし、何より健康に悪い。  晴人はその当時の相勤者にお願いされて、夜にヘルシーな夜食を作っていた。料理は好きだし、作ったものを美味しく食べてもらえるのは嬉しい。けれど、理由はそれだけではなかった。  晴人は箸が止まりそうになる。だが動揺しているのがバレたくなくて、懸命に口に運ぶ。 「そうだ、機捜はどうだったの? 刑事課に配属された後、機捜に行ったって噂で聞いたよ、三浦くんは本当に優秀ですごいよね」  わざと晴人は、自分が辞職してからの話に話題を変えた。 「ええと、面白かったですよ、いっぱい捕まえました。けどある時、窃盗団の車両だと思って、所轄やら本部自ら隊やらを巻き込んで追いかけ回してたら、全然違う飲酒運転の車両を捕まえちゃって……、その時の当直司令から嫌な顔をされましたね」 「良いじゃない、俺たち市民のためにはなってるんだし」 「けれど来週も同じように車を盗まれちゃって、あの時、間違えずに追いかけて捕まえてたら、それも防げたのかなって……」 「相変わらず真面目だね、けど飲酒運転の犯人を捕まえるのだって立派な警察官の仕事だよ」 「まあ……、それはそうですね」   三浦が市民のため、懸命に犯罪を防ぎ、犯人を捕まえようとしている時、晴人は家に閉じこもっていた。  世間どころか、家族のためにもなっていない。姉の理華に心配と負担をかけていただけなのだから。  何となく三浦の存在が遠く思えた。 「星宮さんは退職してからここで働いてるんですか?」 「ええ、まぁうん……、最近だよ、やめてからすぐはちょっと体調崩しちゃって、家で療養してた。それで最近、姉に誘われて、ここで料理を作ってるよ。ほら、三浦くんも知ってる通り、俺は料理好きだからさ」 「はい、でも以前よりも美味しくてびっくりしました。料理の腕、あげてますね」 「交番でちゃちゃっと作っちゃうのと、ここで材料とかも揃えて丁寧に作るのでは違うよ」 「そんなことないですよ、丁寧に作ってたじゃないですか。守原さんもいつも美味い、美味いって食べてたし」  その名前が出てきて、ついに晴人はひどく動揺してしまった。取り繕う言葉さえ出てこなかった。いけない、と思い、顔の強張りを解こうとするが、上手くいかない。 「う、うん、守原さん、ね……」  これ以上箸を進められず、テーブルの上に置く。俯き、左手で右手首を握りしめた。  守原とは晴人が辞める直前まで一緒に交番で勤務していた警察官である。歳は四十を超えていたが、婚約者がいて、年齢よりも若く見られていた。  そう、守原は殉職したのだ。犯人の車に轢かれそうになった晴人を庇って、代わりに轢かれた。  内気で周囲と壁を作りがちだった晴人に守原は気さくに話しかけ、周囲と打ち解けられるようにしてくれた。今、考えると、夜食の件もその一環だったのではないかと思っている。  守原は誰にでも気さくで親切で、周りをよく見ていて、そんな守原に惹かれるのに、そう時間は掛からなかった。  当時、晴人は必ず弁当を持参していた。昼と夜の分、きっかり二食。 『星宮、お前の弁当、うまそうだな。料理好きなの?』 『ええ、まあ……料理を作るのは好きです』 『そうなのか、今度の当直の夜、なんか作ってよ。お前の料理良さそう』  きっかけはこれだけだった。晴人の弁当を見た守原の冗談めかしたお願いを本気にした晴人は次の当直で軽く料理を作り、守原に食べさせてみた。 『美味い! 何だこれ、美味いよっ! どんだけでもいける!』  晴人の料理を食べた守原の、やや興奮した声は生涯忘れないだろう。  守原には当時婚約者がいた。なので、思いを告げるつもりもなく、ただ一緒に勤務できて、たまに作った料理を美味い、と食べてもらえるだけで幸せを貰っていた。それに守原はみんなに優しい。晴人だけに特別というわけでもない。  いつの間にか、当直の時の夜食は定番になり、噂を聞いた他の班が食べに来るようになった。三浦たちの班も噂を聞いてやってきた班の一つである。  周囲と壁を作りがちだった晴人の料理がこんなに美味しいなんてみんな意外だったのだろう。あれを作って、なんてリクエストまで来るようになる。  周囲に打ち解けられたようで、晴人は嬉しかった。  しかし守原は車に轢かれて死んでしまう。  ある日の夜中の現場、犯人が車で逃走する際、晴人の方へ真っ直ぐ突っ込んできた。  ハイビームにした車のライトが晴人を照らし、迫ってくるが、その時晴人は恐怖で足が竦み、動けなかったのだ。 『何やってんだ!』  気がついた時には思い切り突き飛ばされ、車道外へ押し出されていた。   我に返り、振り向いた時、運転席に乗っていた男の横顔がよく見えた。男は驚いたように目と口を開けていた。  その理由は今となったらよくわかる。晴人がちょうど男の横顔を見ていた時、男は車で守原を跳ね飛ばしたのだ。  そこから先の記憶は曖昧だった。救急車を呼んだところまでは覚えている。そして守原は治療の甲斐なくそのまま亡くなった。 「星宮さん?」 「ぁ、み、三浦くん……」  俯いていた顔を勢いよくあげ、三浦に目線を合わせる。  意思の強そうな太い眉が眉間に寄せられ、心配そうな視線とかち合う。 「顔が真っ青だ、大丈夫ですか?」 「そ、の、ぁ……」  三浦は昨日、この辺りで高級車ばかりを狙って盗む犯人がいる、と言っていた。守原を跳ね飛ばした犯人も同じく、高級車ばかりを盗む奴だった。しかもまだ捕まっていない。  不安に襲われる。この辺りで車両の窃盗を繰り返している犯人はあの時の犯人なのかもしれない。  再び俯き、晴人は左手に力を込めた。右手の指先が白くなるほど握り締め、不安をやり過ごそうとする。  小刻みに肩が震え、気分が悪くなる。目の前が真っ暗になりかけた時だった。 「星宮さんっ」  突然右手首を左手ごと握られ、ぎゅっと掴まれる。  驚き、顔を上げると、やけに真剣な顔をした三浦が真っ直ぐに晴人を見つめていた。 「俺、必ず守原さんを轢いた犯人、捕まえますからっ!」  店内に響く大きな声でそう宣言され、晴人は呆気に取られる。  ぽかんと口を開け、何も言えないでいると、三浦の大きな声を聞いた理華が慌てて厨房から様子を見に出てきた。 「どうしたのっ!」  理華の声を聞き、驚いたのか、はっとなった三浦は晴人の手を振り解く。 「あ、いやっ……、大きな声を出してすみませんっ、帰りますっ」 「あ、ちょっと……」  耳まで顔を赤くした三浦は荷物をまとめると、レジの方へ向かっていく。  晴人が振り返ると、理華が対応していた。 「ありがとうございましたっ、ごちそうさまでしたっ!」  帰り際、そう言ってぺこりと頭を下げてから、三浦は退店した。一度も晴人の方を見なかった。 「晴人、何があったの?」  近づいてきた理華にそう聞かれ、晴人はどう言おうか迷う。  実際、晴人にもよくわからない。  どうして三浦は晴人が守原のことを思い出して、青褪めてしまい、気分が悪くなっていた、と気がついたのだろうか。守原の名前が出て、晴人が黙ってしまったからだろうか。 「何でもない……、三浦くんは俺を励ましてくれただけだよ」 「そう、それなら良いけど」  晴人は三浦が座っていた方へ視線を変える。  見事に一つの野菜も残すことなく、食べ切っていた。昔は食べられない、と申し訳なさそうに野菜だけ避けていたのに。  そして掴まれた両手には三浦の温かくて、頼もしい感覚がまだ残っている。  心臓が跳ねている。握り締めすぎて、白く冷たくなっていた右手の指先にはいつの間にか血が戻り、温かくなっていた。

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