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第4話

家の周りを軽く走った後、今日は近くの大きな運動総合公園まで行くことにした。 「疲れたな……」  今はベンチに座り、休憩をとっている。  首にかけたタオルで顔まわりだけでなく、首や腕の汗も拭った。時折吹く、春の朝らしく爽やかな風が健康的な運動で火照った身体を涼しく冷やしてくれるが、それだけでは治まらない。  不意に喉の渇きを覚え、晴人は近くにある自販機のところまで歩いた。スポーツドリンクを買おうと、五百円程度しか小銭を入れていない財布をボディバッグから取り出そうとした時だ。 「あれ?」  小さいボディバッグの底まで手を差し込むが見当たらない。手を一周させ、中身を画探るが、財布はなかった。どうやら家に忘れてきたようだ。  だが諦めきれず、バッグの中に小銭だけでも入っていないか、晴人が探しているとき、背後から声を掛けられた。 「星宮さん?」 「っ、み、三浦……くんっ」  名前を呼ばれ、晴人が振り返ると、ジャージ姿の三浦が立っている。  晴人は驚いた。制服と普通の私服姿しか見慣れていなかったから、ジャージ姿は新鮮だ。しかも昨日の日付が入っているパトロールメモが置かれていたから、てっきり三浦は当直かと思っていたのだ。 「当直じゃなかったの?」 「昨日は日勤です。夕方の現場が長引いて、その帰りに寄らせてもらいました」 「そうなんだ、パトロールいつもありがとうね。姉も喜んでるよ」 「いえいえ。この前も昼間に三台やられたので気をつけてくださいね」  昼間に三台も盗難に遭うなんて珍しいだろう。大胆になってきているのかもしれない。  晴人は不安になってきた。しかし守原のことを思い出し、顔色を悪くすると、三浦が心配するので急いで頭の中から悪い記憶を振り払う。 「大変だね……、そういえば三浦くんはここでランニングしてるの?」  晴人は話題を変える。 「ええ。非番の夕方と週休の朝と夕方、特に何も用事がなければ走ってます。身体、作りたくて」  そう言われ、晴人はまじまじと三浦の身体全体を眺めた。   肩幅や首筋はがっちりして男らしいし、ふくらはぎは程よく筋肉がついている。半ズボンに隠された太ももも膝上の影が濃く、しっかりと作り込まれている様子が窺えた。  これ以上、どう身体を作るんだろう。下半身をこれだけ鍛えている人が上半身も鍛えていないはずがない。パーカーで腹筋などは見えないが、きっとしっかり割れているに違いなかった。  晴人は三浦にじとりと、怪訝な目を向けた。 「結構筋肉あるじゃないか」 「触ってみます?」  三浦は半ズボンの裾を人差し指でちらりと上げた。  垣間見えたそこは晴人の思った通り、立派な筋肉に覆われ、日に焼けている。 「わっ! いい! 触らないよっ!」  何だか恥ずかしくなってきた。  晴人の恋愛対象は男性のみだ。筋肉がつかず、なだらかな身体付きの自分にコンプレックスがあるので、しっかりとした筋肉がつき、力が強く、体力のある男性に憧れを持っている。  そう考えると、三浦は晴人のタイプなのかもしれない。  顔が赤くなってくる。バレないように急いで顔を背けると、三浦が近づいてくる。 「顔が赤いですね。結構しっかり走ったんですか? とりあえず座って飲み物でも飲みましょう」 「あ、俺はいいよ。財布を忘れちゃったんだ」  顔が赤くなっているのはバレてしまったが、うまく向こうが勘違いをしてくれた。  晴人は胸を撫で下ろす。 「それくらい奢ります。そこで座って、待っててください」  元とはいえ、後輩に奢らせるなんて、と思い、呼び止めたが、他のランナーにベンチを取られますよ、なんて言われたら、従わざるえない。晴人は気が引けたものの、先ほど自分が座っていたベンチに再び座り、三浦を待った。 「どうぞ」  晴人は渡されたスポーツドリンクを受け取った。よく冷えている。手に水滴がつく。 「……ありがとう。また今度お金は返すよ」 「良いですよ、星宮さんには昔たくさん飲み物も奢ってもらいましたし」 「……そういうこともあったね」  ここでしつこく引き下がるのもおかしな気がして、晴人は誤魔化すように渡されたスポーツドリンクに口をつけた。  冷えた甘い味のスポーツドリンクが喉を潤し、身体に染み渡っていく。美味しくて一気に半分ほども飲んでしまった。 「ふう」  三浦も晴人の横に腰掛けた。 「星宮さん、この前はすみませんでした。いきなり手なんか握ってしまって。驚きましたよね」 「うん、びっくりしたけど良いよ。犯人を捕まえるって大きな声で宣言してくれたし。それだけでも安心したから」  誠実な三浦のことだから、会ったらこの前の謝罪をしてくるだろうことはわかっていた。  だが、三浦の言葉に驚きつつも、安心したことも事実だ。  晴人も別に本気で三浦が犯人を捕まえてくれる、などとは思っていない。タイミングや運みたいなものもあり、特に捜査をしない地域警察官はそれらがうまい具合に重なった結果、検挙に至ることが多い。  勿論、捕まえてくれたらそれは嬉しい。 「俺が星宮さんに振られた後、星宮さんが体調を崩してるって噂で聞いて、心配してたんです。それで絶対に捕まえるって決めたんですよ」  自然に告白の時の話が出たので、晴人は少し驚く。もう三浦の中で、過去のことになっているのかもしれない。 「星宮さんが体調を崩したのは守原さんのことを気にしているからでしょう」  犯人を捕まえたとして、守原は戻ってこない。  そう言いそうになったのをぐっと堪えた。  三浦は純粋に心配してくれているのだ。ここで見当違いな自分の怒りや悲しみを三浦にぶちまけるのはおかしい。 「まあそうだね、けど本当に最近は大丈夫。よくなってきたし、仕事もできてるし」  三浦からのパトロールメモが晴人の頭にチラつく。 「捕まえますよ、絶対」 「まあ……期待せずに待っとくよ。怪我や事故だけはしないようにね」  笑いを含んだ声で返事をすると、三浦が不機嫌そうに唸った。 「怒ったの?」 「別に怒ったとかはないです」 「そう?」  買ってもらったスポーツドリンクを飲むふりをし、横目で三浦の顔を見る。少し不機嫌そうな横顔が見えた。 「不機嫌そう」 「まさか」  今度は向こうがスポーツドリンクに口をつけた。  高い喉仏が飲む動きにつれて、ごくごくと上下している。一気に飲んでいるのか、口の端から漏れた飲料水が喉を伝い、Tシャツに染み込んでいく。  その様子をぼうっとしながら見ていると、三浦に心配されてしまった。 「また顔、赤くなってますよ」  「あ、ぇっ」  指先で頰に触れられた。硬い爪の先が当たった後、すぐ柔らかな指の腹で肌を撫で上げられる。  指先の感覚は不快ではないが、触れられたところがじんじんと肌に響いている。  晴人はまた顔が赤くなっていくのを感じた。 「熱中症にでもなりましたか?」 「まさか……そんな春もまだ始まったばかりだし……」 「そうですね」  指先が離れていく。三浦が触れていたところが熱い。熱の跡が残っているようだ。  もっと触ってほしい、なんて言ったら、三浦はどんな顔をするだろう。  晴人は頰を手の甲で拭った。  このままでは良からぬ思いを抱いてしまいそうだった。 「そろそろ姉が起きるから、朝ごはんの準備をしないと……、今日はありがとう。また会ったらよろしくね」 「えぇ、ありがとうございます」  晴人はベンチから立ち上がる。 「それじゃ」  三浦が何か別れの挨拶を言ったような気がしたが、何も聞かずに家の方向へ急いで走る。  晴人は焦っていた。  芽生えてきた感情に知らないふりをするため、帰る途中で何度も首を横に振った。

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