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第8話

「すごい、おっきい水槽……」  仄暗いエントランスホールにはその水族館の中で一番大きくて魚や海亀がたくさん泳いでいる水槽が設置されている。  大きい水槽にテンションが上がり、我ながら小学生みたいな感想を呟いてしまった、と反省していたら、三浦にそのことを指摘されてしまった。 「小学生みたいな感想ですね」 「なっ、ひどっ! まあ俺も同じことを思ってたけどさあ」  軽口の言い合いに、先ほど『カップル』として水族館へ入館したのだということを意識させられる。そうやって文句を言うことも、何だか新鮮で楽しかった。  水槽の中は珊瑚の海が模され、色とりどりの魚や海亀が自在に泳いでいる。珊瑚や置物に隠れているものもいたり、群れをなして素早く動いているものもいたり、隅っこでじっと動かないものもいた。  ふと目の前を色鮮やかな熱帯魚の群れが通りかかった。淡いグラデーションの群れはすぐに通り過ぎ、泳いでいる海亀とぶつかりそうになると、散り散りになった。 「綺麗だね」  そう呟き、横に立つ三浦の方に顔を向けると、三浦と目が合った。  三浦は晴人をじっと見つめていた。自分と同じく水槽を見ているものだと思っていた晴人は驚く。  顔半分は水槽からの光に照らされているが、エントランスホールは暗いので全体的な表情は窺い知れない。けれどやけに真剣な眼差しをして、晴人を見ていることだけはわかった。  不意に心臓が高鳴った。三浦から目が離せない。  俺じゃなくて、水槽を見たら?  笑いを含み、冗談めかして、そう言えば良いだけだ。  しかしうまく言葉が出てこない。じっと三浦の視線を受け止め続けてしまう。 (あ、まつげ長いんだ、影が落ちてる……)  その言葉が頭に思い浮かんだ時、晴人はかっと頰に血が上った。  公共の場でお互いをじっと見つめ合っているなんて、これじゃあまるで付き合いたてのデートで浮かれるカップルと同じじゃないか。 「あ、あ、み、見るなって!」  この空気感に堪えきれず、晴人が恥ずかし紛れに言葉を発すると、三浦の眉間が怪訝そうに少し顰められた。  その表情を見て、晴人は自身の口元を押さえる。  しまった。言葉を間違えてしまった。 「そうじゃなくて、その……俺よりも、魚を……」  しどろもどろに告げた言い訳が恥ずかしい。いや、これは言い訳にもなっていないだろう。  顔を赤くしたり、口元を隠したりしている晴人に対して、三浦の態度はほとんど変わらない。  今もずっと晴人のことを見つめている。 「魚を楽しそうに見てる晴人さんが可愛くて。水族館とか実は好きなんですか?」 「ぅ、えぇ? す、好きだよ……、魚とか水族館とか……」  別に普通の会話なのに、『好き』という言葉に対して、過剰に反応してしまう。  それに今、三浦は晴人のことを下の名前で呼ばなかったか? 可愛いとも言わなかったか?  窓口ではカップルのふりをするため、三浦は晴人のことを下の名前で呼んだ。館内ではそんなことはしなくても良いはずなのに、どうして下の名前で呼ぶのだろう。それに可愛いって何なんだ。  カップルのふりで良いはずなのに、これじゃあまるで本当のカップルみたいだ。 「あ、そろそろ予約の時間だ、ここの三階のレストランをお昼に予約してたんですけど行きます?」  レストランの予約までしてくれているなんて、これでは本格的に三浦は晴人の彼氏、恋人みたいに思える。 「予約までしてくれてたんだ、ありがとう。行くよ」  また意識してしまう。顔が赤くなってくる前に晴人は三浦に背を向け、エレベーターの方へ向けて歩き出す。  期待してしまう。けれども、一歩踏み出すのは怖い。  割り切れない自分のことが嫌になりながらも、晴人はレストランへと向かった。   「あのペンギンめっちゃ可愛かった、ひょこひょこ歩いて、お尻振ってた……」 「おれはアリゲーターガーが面白かったですね、あんなにでかいのは飼えないけど、家庭で飼えるぐらいの小さい種類のものもいるみたいです」 「興味あるの?」 「ちょっとだけ……、まあ飽きたら晴人さんに天ぷらにしてもらいますよ」 「食べるのかよ」  二人は三浦が予約していたレストランで少し早めの昼食を摂った後、かねてから晴人が見たがっていたペンギンショーを観覧した。その後は三浦が見たいと言ったので、古代魚のコーナーへ行き、適当に館内をぷらぷらと見学した後、今はカフェに入り、テラスでホットコーヒーを飲み、休憩している。  行きの車の中で言っていたトドは展示室にはおらず、今日は中で休んでいるらしい。  最初、エントランスホールでの出来事のせいで、車中でほぐれたはずの緊張がまたぶり返してきたものの、水族館を楽しむ内にまたほぐれていき、今はずいぶんと慣れた。  それに以前として三浦は晴人のことを下の名前で呼んでいる。 「甘いものでも食べますか?」 「三浦くんが食べたいなら……」 「食べたいのは晴人さんでしょ、さっき子供が食べてたアイスを物欲しそうに見てたくせに」 「なっ、物欲しそうな顔はしてない!」 「してましたよ、ほんと顔に全部出るところは昔から変わってないですね。あ、すみません、このトドの形のアイスを二つお願いします」  勝手に注文している。顔に出ている、という言葉にムッとするが、本当に晴人は、アイスとか甘いものを食べたいなあ、と思っていたところなのだ。  涼しい顔で笑っている三浦の顔を睨みながら、晴人はホットコーヒーを口に入れる。粗雑なインスタントの味だが、水族館のカフェなのでこんなものだろう。  ここまで三浦と過ごしてきて、三浦に対し晴人は『こういうことに慣れてる』という感想を持った。  まず初めにレストランが予約してあり、少し早めとはいえ、お昼時にも関わらず、食事にありつけた。  次に食事を終えた後、ペンギンショーに行き、ベンチに座ろうとした際、三浦は晴人が座るところにハンカチを置こうとした。これには驚いた。そして流石に断った。  俺、女の子じゃないからっ、と断ると、そうですか、と言ってすぐに引き下がってくれた。しかしその時の三浦は何だか納得していないような表情をしていたので、若干それが気になってはいる。  その後も一足先にリードしてくれたり、さっきみたいに晴人の動向を観察して、やりたいことや食べたいものを察してくれたり。 「お待たせ致しました。みーちゃんの水遊びアイスです」  注文したアイスがやってきた。みーちゃんというのはこの水族館にいるメスのトドの名前だ。みーちゃんの形のバニラアイスが水に見立てられたチョコレートの中で水遊びをしている様子がデザートになっている。 「いただきます」 「……いただきます」  三浦はデザートでも必ず手を合わせてから口に入れる。晴人もそれにならい、手を合わせた。  晴人は水遊びではしゃぐ笑顔のみーちゃんのアイスをざくざくとスプーンで削った。茶色いチョコクリームの中にバニラアイスが溶け、白くとろみがつく。まだ全てが溶けきらないどろりとした茶色を掬い、口に入れた。  チョコレートとバニラの甘い味が口の中に広がる。美味しいが、あまり気分は晴れない。晴人の心は皿の上のチョコレートクリームとバニラアイスとが混ざった液体のようにどろりとしていた。  三浦は明らかに女の子とのデートに慣れている。そのことが妙に気に触った。  晴人は好きな人と二人で出かけたこともなく、デートもしたことがない。今日も緊張しっぱなしで、三浦にリードされてばかりだ。勿論、そのことについて三浦に感謝もしている。  だからこれはきっと嫉妬なのだろう、と晴人は自分を分析する。  この気に入らない、という思いは、三浦が過去に付き合ってきたであろう恋人たちに向けられたものだ。  嫉妬なんてみっともない。自分から告白を断ったくせに。それに今でも失うことに怯えて恋愛なんかできないくせして。  そしてその思いと共に、立派に晴人をリードする三浦に対して、遠いものも感じてしまった。  三浦と出会った頃、本当にまだまだ若くて、何なら子供っぽさを残していた。現場で一緒になれば、星宮さん、星宮さん、と晴人を呼び、指示を仰いできたこともある。  かつての三浦は初々しくて、晴人にとっては、目をかけて育てなければいけない後輩であったのだ。  晴人が警察を辞め、家で心身のバランスを崩している間、三浦は刑事課や機動捜査隊で経験を積み、立派な警察官になっていた。たくさん事件を解決し、たくさん犯人を検挙したのだろう。  時間が止まっていた晴人と違い、三浦は成長している。そしてこれからもずっと成長し続けるのだろう。  それについていける自信がなかった。  二年前のことを引きずり、未だに臆病に生きている晴人に呆れるかもしれない。  そして、きっと三浦には、過去に何人か恋人がいたに違いない。それらと比べられ、初心で恋愛に慣れていない晴人なんか魅力的には映らないだろう。もしかしたら今日でもう愛想をつかしたかもしれない。 「写真撮らずに食べちゃったんですか? おれは写真を撮ったので、また後で送りますね」 「……うん」  過去に写真好きな女の子とでも付き合っていたのかもしれない。男は、わからない。もしかしたら写真好きな彼氏かもしれない。  執拗に砕いたせいでバニラアイスクリームが溶け、チョコレートクリームと混ざり、完全な液体になってしまった。生ぬるいそれをスプーンで掬い、無くなるまで飲み続けた。

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