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第10話
この水族館は海に面して建てられており、その横には海浜公園がある。
時間帯は夕方ごろ。日が傾き、暗くなりかけてきており、人は少ない。公園の周囲には犬の散歩をする人がちらほらといるだけであった。
水族館を出た晴人と三浦は白い手すりにもたれ、すぐ下の海を眺めている。
空は紫がかっており、その綺麗な色が海面に反射して、海までもが薄く紫に染まっていた。
「子供、まだ苦手なの?」
晴人は手すりに持たれ、両腕の中に口元を埋めながら、横目で三浦を眺める。三浦は晴人の方を向かず、少し俯き、海を見ていた。
「いや……そういうわけじゃあ……」
何だか返答の端切れが悪い。晴人は三浦の耳が真っ赤になっているのに気がついた。
「耳、赤いよ」
ぼそりと晴人が指摘すると、三浦は勢いよく耳を隠した。
「今でも子供苦手?」
「……はい」
素直に頷く姿が可愛らしい。耳だけでなく、頰まで赤い。
「でもそれだけじゃなくて」
変わらないね、と言って、三浦をからかおうとしていたら、思いがけず言葉が続いたので、晴人は黙っている。
「あのさっきの迷子が……羨ましくて」
「えっ? どういうこと?」
三浦の言っていることがわからず、晴人は顔をあげた。長めで左右に分けていた前髪が崩れ、目にかかったので、指で梳き、急いで戻す。
相変わらず三浦は晴人のことを見ない。視線は海へ向けていた。
「だって、子供は晴人さんに構ってもらえてて……頭撫でてもらってたりとか……」
三浦の顔が更に赤くなっていく。
「おれだって……、晴人さんに触ってもらいたい」
うぅ、と言いながら、三浦が突っ伏していく。
その様子を見ながら、晴人は何だか胸が痛くなってきた。
勿論その痛みが不快感や体調の悪さ等から来るものではないことはわかっている。
だけどどこかで、その気がないならやめておけ、という声もする。
やや緊張しながら晴人は口を開いた。
「俺に触って欲しいの?」
顔を見せず、こくり、と頷かれ、晴人の鼓動が速くなった。
やめておけ、という警鐘が鳴り響く。しかしそれを無視し、ドキドキしながらも手を伸ばした。そして、優しく三浦の後頭部に触れる。
初めて三浦に触れてみて、意外と髪が細いことに気がついた。
そのままわしゃわしゃと緩く撫で回す。
「……もっと」
催促された。最初は怖々と触れていたが、次第にこの状況に慣れ始めた晴人は思い切り髪をかき回した。
さらさらと指に当たる一本一本の髪が心地いい。
調子づいた晴人は矢継ぎ早に質問をした。
「子供相手に嫉妬してたってこと?」
「そうです」
「俺にこうされたかったの?」
「そうです」
「髪、気持ちいい?」
「……ええ」
今までの三浦の行動や態度を見て、自分と離れていた二年の間にずいぶん大人になってしまったと思っていたものの、今の三浦はかなり子供っぽくて可愛い。
(三浦くんって甘えたなんだ)
それは知らなかった真実だった。しかも迷子にまで嫉妬するほどだとは。
言われた通り、わしゃわしゃと撫で続けた。
過去の恋人たちにもこうやって甘えたのだろうか。
晴人の知らない、小さくて、可愛くて、柔らかな身体の女の子に甘える三浦を想像してしまう。
「ほ、他の恋人たちにも……こうやって甘えた、の?」
「えっ」
しまった。つい、雰囲気に流されて、思ったことを口に出してしまった。
顔を上げたので、ぱっと手を退けるが、三浦に手を掴まれてしまう。
大きく暖かい手だ。晴人の手なんてすっぽり包まれてしまう。
「なんて?」
「あっ」
ぐい、と引き込まれて、そのまま捕まえられた。
身体が密着している。先ほどまでは仄かに香っていた三浦の香りが一気に近くなり、晴人は動揺した。
心臓が高鳴る。これだけ近ければ三浦にも聞こえているかもしれない。そう思うと更に顔へ血が上ってきた。
「他の、こ、恋人……」
「嫉妬ですか?」
指摘されると、自分が何を口走ったのかを突きつけられているようで居た堪れなくなった。
そも、晴人は三浦の恋人ではない。なのに『他の恋人にも甘えたことがあるのか?』なんて、こんな質問をするのは違和感がある。
けれど、三浦は『晴人に甘える子供が羨ましい』旨の発言をしていて、『もっと触って』なんて晴人に催促をしていた。
恋人がいたことがなく、性行為もしたことがないとはいえ、晴人もそこまで鈍くはない。
疑念や勘違いだと思っていたことが確信に変わっていくものの、あと一歩踏み出す勇気がなかった。
そうだ、三浦は警察官なのだ。
場合によっては、晴人を置いて、仕事に向かい、そのまま戻って来なくなる可能性だってある。
それに晴人には恋人として、三浦に大切にしてもらう権利なんてないのだ。守原の件は晴人の心に深く根ざしている。
「嫉妬じゃな……」
「嘘つき、顔真っ赤だよ」
耳元で囁かれ、身体が震えてしまった。晴人は奥歯を食い締め、小さく顔を振った
「晴人さん、俺、貴方に一回振られてるんだよね」
三浦のことを最初に振ったのは晴人だ。
「あ、そんな……ずるい、よ、三浦くん」
けれどそれを今、指摘するのはずるいと思った。
そして最後には残酷なことを言わなければいけないから、そのことも考えてしまう。
「何とでも、おれは貴方の口から聞きたい」
深呼吸する。
晴人はまず最初の質問に答えることにした。
「し、嫉妬した……過去の恋人にもこういう風に可愛い三浦くんを見せたのかなって思うと、なんかすごく……嫌、だった」
「どうして嫉妬したの?」
「っ、三浦くんのこと……す、ぅ、三浦くんに……好意、を持ってるから」
ついに言ってしまった。辛いのは自分なのに、三浦を大きく裏切ってしまうのに、思いを伝えてしまい、晴人は後悔した。
それに何だか『好き』という言葉から言い換えたのは恥ずかしいという思いからだったが、どちらに言い換えても恥ずかしさは変わらなかった。
「おれも好きです、晴人さんのこと。振られても、離れても気持ちは変わりませんでした」
晴人よりも三浦の方が余程真摯に告白している。
「今日は本気でカップルになるつもりで、接していました。晴人さんに出会ってからおれは晴人さんしか見ていないです。ずっと警察を辞める前から、一緒に勤務をしていた時から憧れていました。おれが警察官でいられるのは晴人さんのおかげですから」
「そんなに、ご飯が……美味しかったの?」
三浦は夜食の話をしているのだろうか。確かに晴人が作ったものは美味しく食べてくれていたが。
「そればっかりですね。料理以外にもたくさんありますよ」
三浦は晴人の身体を一旦離す。しかし左手は握られたままだ。
「晴人さんが星を見に連れて行ってくれたこと、覚えてますか?」
「うん、たまたま守原さんも三浦くんのとこの班長もお休みで二人で当直した時だろう?」
「覚えていてくれて嬉しい」
三浦は笑顔になった。柔らかな、屈託のないその笑顔が、晴人の料理を美味しいと食べていた時の表情と重なる。
「あの時、理想と現実のギャップに悩んで、『警察官を続けられる自信がない』って言ったおれに晴人さんは『全ての人を助けられるなんて自惚れるな、けれど目の前で困っている人がいるなら、その人を助けるために全力を注げ』って言ってくれたんですよ」
それも覚えている。当時悩んでいた三浦のため、晴人は警らの途中、民家も街灯も一切ないところへパトカーで連れて行き、星を見ながらそうやって三浦のことを励ましたのだ。
「晴人さんの言葉を聞いて、おれは肩の荷が降りたんです。助けられる人もいれば、何ともできない人もいる。それは仕方のないこと。だけどそれは目の前で苦しんでいる誰かを救わない理由にはならない」
「うん、言ったよ」
「あの日からその言葉を励みにして、夢だった刑事になりました。そしてたくさん捕まえました。けれどたくさん救えなかった。だからこそ、次は救おうと頑張る。例え結果が伴わなかったとしても、です。だけど貴方のことは絶対に救いたい、おれが貴方を救いたいんだ」
三浦の視線が真剣なものに変わった。晴人はそれを真正面から受け止めた。
だが、何だか逃げ出した気持ちになった。
あの頃と今の自分は違う。今の晴人は過去に囚われ、傷つくことに恐れている臆病な男だ。
誇りを持って、市民や県民のために奉仕している三浦が眩しくて仕方ない。三浦が羨ましい。晴人の手が届かないところにいるような錯覚を覚えた。
「俺は、昔とは違う……、今はただ臆病で、過去を引きずっていて……三浦くんには似合わないよ、救ってもらう資格なんてない」
晴人は小学生の時の社会見学で学校に来た警察官の『街中で暮らす人々のささやかな笑顔を守る仕事です』という言葉に強く憧れを持ち、そのまま警察官になった。
その時の晴人は内気で大人しくて、何をするにも姉の後ろをくっついていたのだ。そんな晴人が『警察官になる』と言い出して、今はもう既に亡くなった両親は喜び、姉も驚いていた。そして高校を卒業してすぐに警察官に合格したのだった。
「俺は肝心な時に足がすくんで、動けなくて、守原さんを殺してしまったんだから」
「違うっ!」
強く抱きしめられた。潮の香りを含んだ強い冷たい風が吹く。抱きしめられて、本当なら心も身体もあったまるはずなのに、一気に持っていた熱が冷めた気がした。
晴人は力が抜けそうになり、何とか足に力を入れて踏ん張る。
背中には三浦の手が回されていた。
晴人は肝心な場面で足が動かなかったことで、警察官としてだけではなく、一個人としても自信を失くした。
自分はもう誰のことも守ることができない。そんな自分は誰にも守ってもらえる権利はない。
三浦のような立派な人物には釣り合わない。
「悪いのは犯人でしょう、晴人さんが自分を責める必要なんてないんだ」
「ありがとう、優しいね」
晴人もそっと三浦の背中に手を回す。
「好きです、晴人さん、お願いです」
「……ごめんね、三浦くんのことは好きだけど、恋人にはなれないよ」
恋人にはなれない、というセリフは最初から言おうと決めていたことだ。
自分も好きだ、と暴露したのは、三浦の真摯な思いに対して、自分も真摯に対応しようと決めたからだ。
それともう一つ言おうと思っていたことを口に出す。
「帰ろう、俺たちはもう会わない方がいい」
「……嫌だ」
そう言って、子供のようにぐずぐずとその場から動こうとしない三浦を何とか宥める。
波が防波堤にあたり、飛沫があたりに飛び散った。その破片のような飛沫は濃い紫色に染まり、やがて海へ、宙へ、空気へと溶け込んでいった。
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