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第11話

水族館へ行った日から、一ヶ月以上経っているが、三浦とは全く会わなくなってしまった。  もう季節は春とは呼び難く、初夏の雰囲気を催している。  店の前の街路樹は葉を青々と茂らせており、それを見ながら姉が『毛虫が落ちてくる』とごちていた。  あの時、三浦に対してひどいことをした、という自覚がある。   自分も好きだ、と言っておいて、恋人にはなれない、なんて残酷すぎるだろう。  そして、晴人の言葉の通り、三浦はもう来なくなった。二回も振られて、諦めようとしているのかもしれない。それとももう諦めたのだろうか。  それなら良い。三浦に自分は釣り合わない。  これで良かった、と頭では考えるものの、やはりまだ三浦を求めてしまう自分がいる。  何となく運動総合公園に行くのはやめられない。そこで三浦の姿を探すこともやめられない。  交番から注文があると、もしかしたら三浦がいるかも、と思ってしまう。  交換したラインも自分から連絡をする勇気もないくせに何度も開いたり、消したりを繰り返してしまう。  抱きしめられた時の三浦の身体の厚さ、手の大きさ、心地よい体臭も事あるごとに思い出し、恥ずかしいもののまた触れて欲しい、とも考えてしまう。  耳元で囁かれた時に身体が震えてしまったが、それもバレてやしなかっただろうか。  これでは、未練があるのは晴人の方になる。  三浦はもう晴人に会いに来ない。相変わらずパトロールメモは姉のクラウンに挟んでくれているが、もう何も見ずに姉に渡していた。  その姉にも今回の顛末はきちんと言っておいた。  お互い両思いだとわかったものの、恋人になることを晴人が拒絶した、と伝えたところ、そっか、とそっけなく返された。他にも何か言いたいところを抑えて、一言しか返さなかったのは姉なりの優しさなのかもしれない、と思うことにしている。  もうすぐ店はランチの時間帯だ。今からお客さんが増えてくる。うかうかと他のことを考えている余裕はない。  今も店のドアに向かって走り寄ってくる人物が見えた。 「いらっしゃ」 「星宮さんっ!」  店に飛び込んできたのは三浦だった。制服姿で息を切らしている。 「い、いらっしゃい……どうしたの、三浦くん」  気まずいものも若干感じたが、三浦の様子が慌てているので、晴人は眉を顰めた。 「すみません、こっちの方向に上下黒色の男が逃げてきませんでしたか?」 「いや、わからない、ごめん。店内にいたらから」 「そうですか……」  三浦はあたりを窺い、そっと晴人に近づく。そして他のお客さんには聞こえないように、耳打ちした。 「実はさっき車を盗もうとした男たちがいたんですが、逃げられました。気をつけてください。それじゃ」  それだけ言って、三浦は慌てて出て行った。  心臓が変な風に鳴っている。しかしこれは三浦に会えて嬉しくて言うようなものではない。  ハイビーム、クラクション、車が人間を轢く鈍い音。  それらが頭の中に突然フラッシュバックし、ごちゃごちゃと脳内をかき回される。  気分が悪い。けれど店で倒れるわけにはいかない。  晴人は店の奥に行き、姉に声を掛けた。 「ごめん、姉さん、ちょっと休ませて」 「ぁ、えっ、大丈夫? 顔が真っ青よ」  椅子に座り、目を瞑る。大きく息を吸ったり、吐いたりして心を落ち着かせようと努力したが、うまくいかなかった。  結局、その日は家に帰された。店も入店制限をして、早めに閉めたらしく、姉もすぐに帰ってきた。  とにかく今は休みなさい、と言う姉の言葉に従い、シャワーだけは何とか浴びた後、ベッドに入る。  昼間に車両を盗もうとして逃げた男がいたことを姉に教え、用心するように伝えた。  布団に入り、目を瞑る。窓の外、遠くからサイレンの音がして、怖くなった晴人は布団の中に潜った。    何か物音がした気がした。晴人は目を覚まし、がばりと身体を起こす。じっとりと寝汗をかいており、寝巻き代わりのTシャツが身体に張り付いており不快だ。枕元に置いてあったタオルを手に取り、軽く顔を拭いた。  あれから寝たり、起きたりを繰り返していたので、眠り自体は浅かった。変な夢も見た気がするし、ぐっすりと休めた、という感覚はない。物音はもうしない。きっと夢の中の出来事だろう。  守原が死んだ時のフラッシュバックが起きて、また体調を崩してしまった。明日あたり、病院へ行って診察を受けた方がいいかもしれない。  晴人はベッドから降りた。汗をかいたせいで酷く喉が渇いている。一階へお茶を飲みに行こうと思い、床に足をつけた時だった。  視界の端、カーテンの隙間からちらりと光が見えた気がした。 「なんだ?」  眉を顰め、窓に近寄っていく。また光が見えた。  カーテンをそっと開け、外を伺う。晴人の部屋の下は駐車場だ。今は姉のクラウンが駐車されている。  晴人は息が止まった。駐車場に懐中電灯を持った男が二人入り込み、姉のクラウンを盗もうとしている。  頭がくらくらしそうになったものの、枕元の携帯電話を手に取り、110を押した。コール音が鳴っている間、落ち着け、と言い聞かせる。ここで晴人ができることは110番をして警察を呼ぶことだ。幸い、姉は寝ているようで、この状況に気がついた様子はない。 「警察です、事件ですか? 事故ですか?」 「事件です、家の駐車場に男が二人、入り込んで、車を盗もうとしています」 「すぐに警察官を向かわせます、住所を教えてください」  住所を言い、110番センターの係の質問に答えている時だった。  玄関の開く音がした。そしてゴルフクラブを持った姉が男二人に向かっていくのが上から見えた。  心臓が止まる思いがし、晴人は竦み上がる。何やらもみ合いになっており、姉の怒鳴り声が聞こえてくる。  このままでは姉が危ない。  晴人は急いで階段を降りていく。途中で車の警報音が鳴り始め、さらに焦りを加速した。 「あ、姉が! 姉が男たちへ向かって行った! ああ、すみません! 行きます!」  とりあえずそれだけ言い、携帯電話をポケットに入れる。 「姉さん!」  もう駐車場には誰もいない。ハザードが点滅し、警報音を鳴らしている白いクラウンが一台あるだけだ。  慌てて辺りを探すと、家の前の十字路の方で姉の声がした。  男の一人を姉が十字路の交差点で捕まえていた。男は暴れており、その上に姉が馬乗りになっている。ゴルフクラブは道路上に放置されていた。 「私の車に何してた! 抵抗するな‼︎」 「間違えたんだ!」 「何がだ‼︎ 暴れんなっ‼︎」  しかし晴人が出てきたことで男はさらに暴れる。とりあえず姉の身の安全が一番だ。男から姉の身体を引き剥がそうと、晴人が道路上に出た時であった。  右から車のライトに照らされる。ハイビームのきつく白い光は晴人の身体の右側からやってくる。  クラクションがけたたましく鳴らされた。しかしスピードを緩める気配はない。何度もクラクションを鳴らされた。  守原が轢かれた時と全く同じ状況だ。  白いハイエース、これも守原を轢いた車両と同じだ。このままでは守原と同じように晴人も姉も轢かれてしまうだろう。  視界の端で赤い光が光が点滅している。  晴人は、これが現実なのか、過去のトラウマが脳内で再現されているだけなのかわからなくなってきた。  車両がどんどん近づいてくる。  早く、守原さんを助けなければならない。  晴人は振り返った。守原ではなく、姉がいた。その横に知らない男もいる。二人は車に驚いているのか身体が固まっていた。  守原がいないことを不思議に思ったが、このままでは二人が轢かれてしまう。  そう思うと声が出た。 「何してるんだ! 逃げろ!」  いまだに男の上から退こうとしない姉を突き飛ばした後、腰が抜けている男も同じようにして突き飛ばす。  おそらくこのハイエースはこっちの男を助けに来たのだ。スピードを緩めず突っ込んできて、姉と晴人が車に轢かれないように逃げた後、男を回収する手筈だったんだろう。  だが、晴人が姉と男を突き飛ばしたら、晴人の逃げる時間がなくなってしまった。  最悪なことにどうやら車はスピードを見誤ったようだ。止まれないでいるらしい。   目が眩んだ。身体が竦んだ。姉が何か叫んでいるが聞こえない。  死にたくない。車に轢かれるなんて嫌だ。  守原はこうやって死んでいったのかと思うと、気が触れそうになる。  しかしもう間に合わない。  運転手の男の顔が見えるくらい近くなる。  見たことがある気がした。すぐに思い出す。守原を轢いた男とよく似ている。  恐怖がピークに達する。晴人はきつく目を閉じた。  三浦くん、助けて。  口に出す余裕はなく、心の中で叫んだ時だ。  パトカーのけたたましいサイレン音がすぐ側まで聞こえた時、晴人の眼前まで迫っていた白いハイエースの横っ腹に車が突っ込んだ。パトカーだ。勢いよく飛び出してきたパトカーが突っ込んだ。  激しい衝突音が辺りに鳴り響く。その後、がしゃがしゃと音を鳴らしながら、ハイエースは北側の路上をころころと転げ、逆さ向きに止まった。  晴人は目を見開いたまま、声も出ず、その場に立ち尽くす。  目の前には車両前部が大きく損傷したパトカーが停車している。サイレン音はまだ止んでいない。赤色灯が回り、辺りを赤く染めている。赤色が、サイレン音がぐあんぐあんと頭に直接叩き込まれる。 「怪我は⁉︎」  運転席から飛び出してきた三浦を見た時、晴人は不意に泣きそうになった。 (三浦くんだ……、俺のこと、助けてくれた)  しかし興奮している三浦に怒鳴られ、晴人は緊張する。そして、思い切り顔を横に振った。怪我はしていない。姉も擦り傷くらいはあるかもしれないが、大した怪我はない。  三浦はそれだけ晴人に尋ねると、横転したハイエースの側に寄り、運転席側の窓を割り、運転手を救出している。  どうしてそっちへ行くんだろう、などと考えてしまい、晴人は驚き、また顔を横に振った。  ようやく意識がこちらへ戻ってくる。  晴人は車に轢かれそうになっていた姉と被疑者の男を助けた後、今度は自分が車に轢かれそうになっていたのだ。  そこへ三浦が運転するパトカーが、晴人を轢こうとしていた車の横へ突っ込み、晴人は助かった。  晴人は周りを確かめる。  いつのまにか助手席に乗っていた三浦の相勤者は姉が馬乗りになっていた男を捕まえている。  続々と応援のパトカー、刑事課の覆面車両、機動捜査隊も到着し、あたりは騒がしくなっていく。  騒ぎを聞きつけ起きた近所の人たちが何事かと外に出て来た。 「晴人っ!」  姉が走り寄ってきた。頰に青あざを作っているものの、姉の無事な顔を見ると、力が抜け、その場に座り込んでしまう。  三浦の方をちらりと見ると、横転したハイエースの運転手に時間と罪名を告げ、三浦が手錠をかけているところだった。どうやら殺人未遂の現行犯逮捕をしたらしい。  そしてその男は間違いなく、守原を轢いた人物だった。 「姉さん、喉が……渇いた」  晴人は本来、自分が何か飲み物を飲むためにベッドから出たことを思い出す。  やってきた刑事に何か話しかけられるが、うまく答えられない。  しかし何があったのか、警察には説明しなければいけないだろう。 「晴人、大丈夫? 今から警察に行ける?」  姉に尋ねられ、晴人は頷いた。 「大丈夫、行きます。説明できます」  家で着替えをし、靴を履いた後、晴人は姉と共に捜査車両で警察署へ向かった。    事情を説明し、警察官に姉と共に家まで送ってもらったのは次の日の昼頃だった。  二人ともひどく疲れており、その日は店を臨時休業日にして休むこととする。  元警察官と言えど、詳しい捜査の状況は教えてもらえない。また何かあれば連絡します、と言われたのみだ。それはわかっているので、あまり気にしてはいない。  藤白警察署には配属されたことはないものの、自分が警察官であった頃のことを少し思い出し、懐かしい気持ちになった。またそんな自分が事情を聞かれているのも不思議な気持ちだった。  当直に以前お世話になったことのある人がいて、晴人の様子を見に来てくれたのは心強かった。  しかし、結局警察署では三浦に会うことはできなかった。  三浦には、助けてもらったお礼をしなければならない。  忙しいと思うので、一応ラインのメッセージに『昨日はありがとう』と入れておいた。しかし、昼過ぎになっても既読はつかない。  枕元に携帯電話を置き、ベッドに寝転がった。  ハイエースに轢かれそうになった時、死を覚悟した。そして、死の恐怖の中で、晴人は必死で三浦を求めた。  いまだにその時のことを思い出すと、身体が震える。指先が冷たくなり、顔から血の気が引く。  しかし、守原の時と違うのは三浦のことを思い出すと、自然と身体の震えが治まり、安堵感に包まれるのだ。 『おれがあなたを救いたいんだ』と真剣な眼差しで告げられたことを思い出す。  三浦は本当に晴人を助けにきた。もちろん、偶然三浦が当直をしていて、偶然三浦が運転しているパトカーが近くを走っていて、偶然三浦が晴人を助けに来ただけだ、ということはよくわかっている。  三浦は最初の宣言通り、守原を轢いた犯人も捕まえた。いや、それを決めつけるのは時期尚早だろう。もしかしたら他人の空似という可能性だってあるわけだ。  晴人は寝返りを打つ。  自分のせいで守原を死に追いやり、自分には守られる価値などないと思っていたのに、三浦に守られてしまった。  嬉しいものの、自分のせいで三浦をもまた死に追いやってしまう可能性があったことを考え、悪寒がした。  やはり三浦に安堵感を覚えるのは間違っている。お礼だけは直接言って、あとはもう関わらないでおこう、と決心する。  携帯電話の着信音が鳴った。三浦からのメッセージだった。  『お疲れ様です。会って話せますか?』  素早く返信する。こちらから出向く、と言ったものの、三浦に押し切られてしまった。そして、明日の夕方に三浦が晴人の家まで迎えにきてくれることになった。

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