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エクセルの更新(2)

 寒い。  寝起きのぼんやりした意識のなか、昴はタオルケットを顔までひっぱりあげ、膝を丸める。すると背中があたたかい壁につきあたったので、そのままピタッとくっつけた。ちょうどよいぬくもりで、また吸いこまれるように眠りにおちる。  そしてパチリと目が覚めた。  背中はまだあたたかい壁に触れている。背中だけでなく腰と尻、脛のあたりも。そういえば目覚める直前まで心地よい夢をみていたような気がする。  昴は夏が苦手だ。苦手な理由はいくつもあるが、そのひとつに蒸し暑くて寝苦しい夜が嫌いだから、というのがある。蒸し暑くて寝苦しい夜が好きな人間はそもそもあまりいないだろうが、昴の場合は目覚める直前に嫌な雰囲気の夢をみる確率が上がるから、嫌いなのだ。  嫌な「雰囲気」の夢、というのがミソである。目覚めた直後に感じる「雰囲気」がつねに似通っているので、自分は同じ夢をみているのではないか、と思うのだが、具体的にどんな夢だったかというとさっぱり思い出せないのだ。昴はもともとどんな夢もきちんと覚えていられたためしがない。ところが同居人の神里はそんなこともないらしく、たまに「面白い夢をみた」と朝食を食べながら昴に話してきかせることがあるくらいだ。  神里。そうか。  昴はそうっと体をずらし、あたたかい壁――神里の背中から離れた。安眠の理由はコレなのだろうか。しかし昨夜はこんなに近いところで眠らなかったはずだが。 「うーん……」  神里が唸り、ごろんとあおむけになった。昴はあわてて起き上がった。神里の足と腹の一部がもう一枚のタオルケットからはみ出ている。すうすうと安らかな寝息がきこえてくる。神里の布団のとなりに昴の布団――寝るべき布団が敷いてあるが、いま昴がいるのは明らかに神里の布団だ。つまり領域を侵したのは昴である。その理由は――  昴はカーテンレールの上に取り付けられたエアコンを眺めた。昴の部屋のものと形がちがう上、特に問題もなく動いているようだ。つまりこの部屋はエアコンが効きすぎなのだ。  昴はタオルケットを引っぱり、自分の布団領域へそろそろと移動した。カーテンの隙間からは眩しい太陽の光が差しこんでいる。  寝起きの頭がはっきり目覚め、昴は昨夜のことを思い出す。どうして自分が神里の部屋で寝ているのか。昨日の午後遅く、リビングのエアコンまで壊れたからだ。  そのあとは神里とふたりで買い物ついでに近所の家電量販店の修理カウンターへ行った。しかし急な猛暑で壊れたのは昴のエアコンに限らないらしく、大忙しの業者はすぐに動けないという。それでもなんとか次の土曜の早朝に来るよう手続きできたので、ラッキーだったのかもしれない。  家電というのは同時に壊れることが多いというのは以前何かで聞いたような気がする。オカルトめいた話ではなく、同時期に購入した家電の耐用年数が同時期に到来する、というだけの話だ。しかも今は夏、木造住宅のエアコンにはシビアな季節である。  家に帰るとリビングはもう蒸し暑くなっていた。昴は扇風機を回し、麦茶のボトルをかたわらに置いて攻略中のゲームに取り掛かったが、頭がだんだんぼうっとしてきた。神里が「昴、素麺食うか?」といったので、我にかえった。 「食う」 「1ポイントな」  開け放した戸の向こうから声が響く。昴は気を取り直してゲームを再開した。やがて素麺の器を持った神里がリビングに登場した。 「箸持ってこいよ」 「うん」  氷の海に浸かる素麺は目にも喉にも涼しい。暑さのせいか腹が減った感じもなかったが、ふたりでずるずる啜っているとあっという間になくなった。扇風機の風と素麺の冷たさのおかげで体の中に溜まった熱がすこし減る。 「暑いな。来週までこれか」と神里がいった。 「おまえは自分の部屋にいればいいだろ」と昴は返した。神里の部屋にはいまや、この家で唯一生きているエアコンがある。 「そしたらおまえがゲームやってるとこ見られないだろ」  そんなもの、暑い中がんばって見るようなものか? と昴は思ったが、神里は当たり前といった表情である。 「昨日ステージクリアしただろう。続きが気になる」 「あっそ」 「それより昴、おまえどこで寝るの」 「ここ……あ、いや、上」  昴は自分の枕とタオルケットが置かれたリビングのソファを眺めた。ここで寝ていたのは二階の自室のエアコンが壊れたからで、いまや条件は同じだ。それなら自分の部屋に戻るのが筋である。昴は自分のテリトリーを厳密に考えるたちだ。  しかし神里は顔をしかめて「おまえほんとに眠れるわけ?」という。 「なんで」 「エアコン壊れた日なんか、朝になってもキョンシーみたいな顔してただろ」 「キョンシー……」 「ぴょんぴょん飛ぶ幽霊みたいなお化けだよ」  キョンシーなら知っているし、幽霊みたいなお化けとはなんだ。と昴は思ったが、突っこまなかった。神里が続いて「俺の部屋で寝ればいいんじゃね」といったからだ。 「おまえの部屋?」 「畳だし、布団もう一枚敷く余裕はある」 「うーん」 「エアコン直るまでだし、俺のことは気にすんなよ」  いやそうじゃないと思ったが昴は口に出さなかった。この家に住民がたくさんいたころは雑魚寝していた連中もいたし、たしかに気にするようなことではないかもしれない――当時はみな学生で、今はいい年した社会人だとしてもだ。  だが昴はこのところ、神里と自分の距離感が変だという気がしてしかたない。相手をただの同居人というには微妙すぎる行動をどちらもとっているような気がするのだ。しかし神里はのほほんとして歯牙にもかけない。気楽な同居生活を続けていけるのだから気にすんなよという調子なのである。  昴は口を閉じ、心の中の天秤の片側に「暑くて眠れない」と「自分のテリトリー」の積み木を、もう片側に「涼しい」と「神里のテリトリー」の積み木を重ねた。天秤は後者の方へ傾いている。 「……そうする」 「そうそう、変な意地張るなって」  というわけで、昴はいま神里の部屋にいるわけだった。  たしかにリビングよりも畳の布団の方が熟睡できたと思う。難があるとすると神里は昴の好みよりエアコンを効かせすぎるということか。体格がいいぶん発熱量も多いのだろう。そこで自分はぬくもりを求めてあっちへ転がっていったというわけだ。分析完了。 「うーん」  また神里が唸り、片足をあげた。ひっかかっていたタオルケットが落ちる。神里は寝るときTシャツにトランクス、というスタイルらしい。十年同じ家に住んでいてもこういうことは案外知らないものだ。  昴はさしたる意味もなく眠りこけている神里をじろじろ眺めた。Tシャツには『インターネット』というカタカナの文字が大書きしてある。  何年も前のことだったと思うが、そんなTシャツをどこで買ったのかとたずねると、神里は真顔で「インターネットで」と答えた。笑いをとろうとしたのか天然なのかいまだにわからないが、要するにこういう男なのだ。トランクスは青と緑と白のチェック柄で、中央がテントを張ったように持ち上がっている。  けっこうデカそう。  唐突に浮かんだ感想になぜか自分でぎょっとして、昴はあわてて体を起こした。同時に神里が鼻にかかった妙な音を出し、目をあける。 「あれ、昴……あ、そうか。おはよう」  まだ眠そうな声だった。昴はパッと立ち上がり、タオルケットを蹴りとばして部屋を出た。

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