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エクセルの更新(3)

 あったかい。  猫が来ている。  神里は目をつぶったまま手をのばし、指に触れた柔らかい毛束をかき回した。実家では飼い猫がこんなふうに布団にもぐりこんだり、上に乗ってきたりするのだ。  俺もう実家に帰ってたっけ?  ぱっと目をあけ、あごの下に髪の房があたるのを感じる。昴が神里の胸のあたりに顔をうずめるようにして眠っていた。  おっと。  あたたかいのも道理である。昴の腕が神里の肩にだらりとかかっている。抱きつかんばかりの勢いだ。というか、ほとんど抱きあっているような体勢である。  えっと、これ、どうしよ……?  神里はゆっくり体をずらし、昴の腕をはずした。足をずらし、そろそろと向きをかえ、背中あわせになる。それでもまだ背中はくっついている。  うむ。この構図、なんなのだろう。昴は完全に神里の布団に侵入している。なんというか……夫婦か恋人かという距離だ。  これで二回目、いや三回目だ。  明け方の室内はエアコンが効いていた。効きすぎなのかもしれない。 「俺の部屋で寝ればいいんじゃね」といったのは神里だ。昴にあわせてエアコンの設定を変えるべきだろうか。しかし神里は神里で、設定温度を一度あげただけでも暑苦しくて眠れなくなってしまうのである。  まあ、昴はこうして温度調節してるのだからいいのか。エアコン修理が終わるまでだし、昴がくっついて暑苦しいというわけではない。実家の猫みたいに上に乗ってこないし、背中と腰がくっついているくらいなら、むしろちょうどいい。  ただ朝がこう……気まずいんだよなあ、と神里は思った。いやこれは自分が意識しすぎなのか? 朝勃ちってただの生理現象だよな? でも、うとうとしているときに昴がくっつてるとやたらと気持ちいいっていうか、どうもなんだか、アレなんだよなあ――アレ……アレってなんだよ。  そんなことをぼんやり思っているうちに、ふたたびとろとろした眠気が神里を襲う。次に目が覚めたときは背中のぬくもりは消えていた。  起床時に妙な気分になる以外は神里にとっていつも通りの一週間――たぶん――が過ぎ、やっと修理業者が訪れた土曜日。リビングのエアコンはなんとか復活したが、昴の部屋のエアコンは死亡宣告を受けた。製造から時間が経ちすぎているのでメーカーに部品もないという。リビングの方も「こっちも来年は厳しいかもしれないですね。買い替え時ですよ」といわれる始末だ。  修理業者を見送ると神里は涼しくなったリビングに座り、家主に連絡するべきかすこし考えた。家に大穴をあけるような修理のときは連絡するという大雑把な取り決めがあるが、エアコンはそのうちに入るだろうか。  家主の関谷は「ダイニハウス」元住人の親戚である。この家を借りた時も今も不動産屋の仲介が入っていないのはそのせいだが、これまで深刻なトラブルがなかったのは幸いだった。年賀状と暑中見舞いを送るのはなんとなく神里の担当になっていて、今年もエアコンが故障する前に暑中見舞いの葉書を出したところだ。  玄関の扉が音を立てて閉まった。 「お、涼しい」  昴がリビングに頭を突っ込み、すぐに戸を閉めてキッチンへ消える。神里は昴を追うようにキッチンへ行った。 「昴、いい知らせと悪い知らせがある」 「何だそれ」  昴はテーブルに置いたスーパーの袋から缶ビールを取り出している。今夜は歴代ダイニハウス住人との飲み会なのだ。リビングのエアコンが故障のままなら飲み屋に行くしかないところだったが、なんとか修理も間に合ったので、このまま決行となりそうである。 「いい知らせ。リビングのエアコンは直った」 「ん」  昴はポテチその他のスナック菓子をテーブルの端に寄せ、スーパーの袋を両手で伸ばし、縦に折りたたみはじめた。 「悪い知らせその1。昴の部屋のはダメだった」  昴の手が止まりかけて、また動く。ジャバラに折った袋を今度は小さな三角形に畳むのだ。 「悪い知らせその2。リビングも寿命はすぎてるから、来年は無理かも」 「マジ?」 「ここみんなで借りてから、かなり長いだろ。そんなものかも」  思い返すと住民が多かった二十歳すぎの頃、この家はずいぶん人の出入りが多かった。神里が住人になったきっかけは、当時大学に存在した「下宿掲示板」だった。そのころは今は物置同然になっている一階奥の四畳半にも人が住んでいたし、留学が延期になったのにアパートだけ解約したとかそんな理由で、数カ月納戸で寝ていた学生もいる。しかしつねに人でいっぱいというわけでもなく、春や夏は帰省や住み込みバイトや旅行で姿をみない住民もいた。 「おまえの部屋のエアコンのこと、考えないと……」  神里はそういったが、昴はこちらに背を向けて、壁に貼った家事戦績表にポイントを追加している。飲み会用の買い出しにひとりで行ったから1ポイント、というわけだ。 「俺のもつけといてくれよ」と神里はいった。 「何で」 「エアコン修理に立ち会っただろ。共有のリビングとおまえの部屋のをあわせて2ポイント」  昴は黙って表に書きこんだ。今月の家事分担戦績はいまのところ神里の勝ちだが、月の後半に昴が追い上げることが多いので、まだ結果はわからない。涼しさが復活したリビングに戻ったとき、昴がポケットからスマホを引っ張り出した。よそゆきの口調で電話に出る。 「はい、楢原です。どうも関谷さん、お久しぶりです。ええ、こっちは特に何も。暑さでエアコンが壊れたくらいで。ええ、今年は暑いですね。暑中見舞い――ああいえ、わざわざありがとうございます」  会社モードとでもいうのか、昴のこんな話し方はあまり聞かないので新鮮である。家主の名前が耳に入ったので、神里は「大家さん?」と小声でたずねた。昴は目でうなずいた。 「ええ……来年――なるほど。そうですか。はい。早めに考えないといけないですね。ええ、問題ないですよ。前からそういうお話でしたし。あ、神里にもかわりますか? ええ、そこにいるので。はい、ああ、メールで。はい。そうですね。じゃあそういうことで。失礼します」  昴が電話を切ったとき、神里はソファにだらりと伸びてエアコンの威力を実感していた。 「関谷さん、なんだって?」  昴は尻のポケットにスマホをつっこみ、ゲーム機のスイッチを入れた。コントローラーを片手に何でもないことのようにいった。 「来年こっちに戻ることに決まったから、ここどうするか、早めに相談しようって」

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