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エクセルの更新(5)
どうみても昴は人の話を聞いていない。リビングの窓を開けたまま二階へあがってしまった。
仕方なく神里はリビングの窓をしめて階段をのぼり、自分の部屋の戸をあけた。
暗い部屋に廊下の電灯が差しこんでいる。昴は一枚だけ広げた布団に斜めに寝転がっていた。神里がのぞきこんでも身じろぎもせず、静かな寝息だけが聞こえてくる。
まるで自動運転モードだ。神里はそう思い、可笑しくなった。まあいいか。
もう一度リビングに戻って窓を閉め、洗顔と歯磨きをすませて階下の電気を消した。それほどたくさん飲んだとも思えないのだが、話が盛り上がったせいか、気分はあがっていた。夏休みの初日だからというのもあるだろう。明日は午前中の飛行機に乗る予定だった。ひさびさの帰省である。
部屋に戻って自分の布団を敷いても昴は目を覚まさない。神里は横になったまま暗い天井をみつめ、飲み会の話題を思い返した。三十歳を過ぎても学生のころとたいして変わったようには思えない。変わっていないといえば、神里の目には外見だってほとんど同じにみえるのだが、これは主観が補正をかけているのだろう。
今日のいちばんの話題はやはりダイニハウス終了の件だった。部屋探しは早めに動いた方がいい、と昴以外の全員にいわれたものである。「部屋探しは運と出会い」「不動産屋に舐められないコツ」「あの引越業者はやめておけ」等々、自説をいくつも拝聴した。ネットで間取りや家賃のアタリをつけ、どのあたりに住むか決め、不動産屋に行く……昴のこだわり条件をはっきりさせて……と考えているうちに眠気が襲ってくる。
ふと気がつくとまた猫が神里の脇腹にくっついていた。
猫にしては大きすぎる気もしたが、神里の寝ぼけた頭のなかではすぐ、猫とはこういうものだという考えにとってかわった。眠っているあいだに寄ってきて、上に乗ったり抱きついたりするのだ。寝ぼけたまま神里は腕を回し、猫にしては形のしっかりした体を抱きしめた。すこし寒かったのでちょうどいい。抱き心地も適度に堅い。
それもそうだ――これはネコ人間だ。
どういうわけか神里の頭は夢の理屈を勝手にこねあげている。肩のあたりに押しつけられた頭を撫でているあいだに、神里の足はネコ人間の足と絡まり、股間がこすれあう。神里はちょうどぴったりはまる位置を探すように無意識に腰をずらし、押しつける。ネコ人間の腕が首に絡まってくる。みると昴の顔だった。神里の中で夢の理屈がもう一段階すすむ。
なんだよ、昴ってネコ人間だったのか? 十年以上一緒に住んでても、知らないことはあるもんだな……。
神里は昴の腰に腕を回そうとしたが、すぐ近くにあったはずの昴の頭は下の方へずれているし、肩と腕は雲のようなものに妨害されてうまく動かない。動かないのに下半身は、というか股間はあたたかいものに覆われて、さっきからすごく気持ちがいい。快感にまかせて神里は腰を思い切り前に突き出したが、やがてその感覚は消えてしまった。するとその代わりのようにネコ人間が上にのしかかってきた。
今度こそ逃さないように、神里はネコ人間の背中を抱きしめ、自分の腰を持ち上げるようにしてゆるやかなリズムで擦りつける。はぁっ、はぁっという小さな声が聞こえる。ネコ人間は神里の腕の中でビクビクっとふるえ、動かなくなった。神里の体はふいに軽くなり、タオルケットの柔らかい感触が顔にかぶさってくる。
そのまま神里は別の夢に突入していた。今度は人間の昴が登場し、炬燵布団について何やらうんちくを語っている。チェック柄の模様がどっちを向いているべきかとか、神里が座る位置はどこであるべきかとか、そんな話だ。正直いって、神里にとってはどうでもいい。
「昴は猫なんだから、炬燵の中でもどこでも好きなところにいればいい」
そう大きな声で――あくまでも夢の中で――しゃべったとたんに目が覚めた。
朝である。
神里の隣の布団は畳んであった。カーテンの隙間からもれる太陽が眩しい。神里はガバっと起き上がって時間を確認する。まずい。飛行機は待ってくれない!
あわてて着替えと充電器、タブレットや財布など、必要なものをかきあつめてリュックに放りこむ。ドタドタと階段を降りて洗面所に駆け込み、シャワーをあびた。髪を拭くのもそこそこに洗面台のシェーバーと歯ブラシをリュックに押しこむと、キッチンの冷蔵庫の前でやっと一息ついた。スポーツドリンクをペットボトルから直接ごくごく飲んだが、少しだけ残ったのでこれもリュックに入れる。
「昴」
廊下に立ったままリビングをのぞくと、同居人は涼しい空気のなかソファに座り、コントローラーを握っていた。もっともテレビ画面は暗いままだ。
「俺、行くから」
「ああ」
昴が返事をしながらリモコンをいじり、テレビをつける。とたんに神里は目覚める直前に夢のことを思い出した。
「昴さ、さっき俺の夢に出てきたんだけど」
昴は妙にぎこちない動きで神里をみた。
「夢?」
「そうだよ。炬燵の向きがどうとかって文句をいってた」
「は? この季節に炬燵?」
「俺に文句をいうな。おまえがいってたんだ」
「僕はそんな話はしてない。おまえの夢じゃないか」
「でもいかにも昴がいいそうなことだった」
「なんだよ」昴は眉をひそめた。
「神里、飛行機の時間は?」
「あ、まずい」
あわててきびすを返し、玄関先で靴の紐を結ぶ。立ち上がるとリビングの扉から昴が廊下に顔を突き出していた。ふと思いついて神里はいった。
「昴さ、俺がいないあいだも使っていいぞ」
「何を」
「エアコン。ていうか俺の部屋。おまえソファで寝るの、好きじゃないんだろ」
昴は驚いたように目をみひらいたが、神里はそこに深い意味も感じず、リュックを肩にひっかける。無理やり押し込んだペットボトルの中身がリュックの中でぴちゃぴちゃ鳴る。外の日差しは悪意を感じるほどきつかった。実家の方は涼しいといいが。駅へと急ぐ神里の頭から、夜中の夢はすっかり消え失せていた。
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