7 / 19

エクセルの更新(6)

 ベランダの床は火傷しそうなほど熱かった。空は青を通り越して白く、憎らしい太陽を隠す雲のひとつもみあたらない。二人分の寝具一式は数時間で乾き、手すりに干した布団はふかふかになった。昴は熱をはらんだ寝具を神里の部屋に放り込む。部屋の主はとっくに実家についているはずだ。  神里の分の布団まで干したのはただの気まぐれだ。洗濯は機械でまとめられるし、布団だって一枚干すのも二枚干すのも同じだと思ったのだが、これほど気温が高いとなかなかの労働である。日曜日だというのに。  これもポイントにいれるべきか、断りもせずやったのだから加算にはならないか。それをいうなら昴が神里の部屋で寝るのだってあっちのポイントになるのでは――などと考えを巡らせながら、昴はリビングに戻った。  こちらのエアコンはとりあえず快調である。しかし昴の好みとして、食べる部屋と寝る部屋は分けたいのである。もはや遠い昔に感じられるが、この家に引っ越す前、昴はワンルームのアパートに住んでいたことがある。今よりはるかに持ち物が少なかったとはいえ、よく暮らせたものだ。  それにしても今日は家が静かすぎる。エアコンの音も心なしか小さくなっている気がする。せっかくの日曜だというのにゲームを進める気にもなれなかった。何かが心にひっかかっている。  いったい何が? と昴は考えた。寝坊した神里があわてて出て行ったことか? 寝起きの夢がどうこうと話していたが、昴にはまったく覚えのない夢である。神里の夢なのだから当たり前だ。  しかしその夢のに起きたことについては――神里は覚えていないらしい。  あのとき自分は何を考えていたのだろう?  昴の思考はだんだん核心へ近づいていく。  昨日(時間的には今日か)神里の部屋で昴がやったこと。あれはどう考えても「普通」ではなかった。  昴はソファに寝転がって天井を眺めた。「普通」であるべきだというプレッシャーは昴にとって長年強力な縛りだった。それは父親のせいだろうか。彼は昴に対して厳しくも無関心でもなかったが「普通」であることにはこだわった。  しかし「普通」なる観念は難解なものである。子供のころの昴は「普通」というものを、周囲の人々の大多数と、少なくとも半分以上と同じようにふるまうことだと理解していた。うっかりすると、学校では周りの生徒とまったくちがうふるまいをしがちだったので、昴にとって「普通」であるのは気力や体力のいることだったし、限界も多かった。  ところがその後、昴は大学に進学して、ある種のカルチャーショックを受ける。なぜならそこで出会ったのは、高校のころまでの昴が持っていた「普通」の基準からかけ離れた連中ばかりだったのだ。ダイニハウスの住人や教師や先輩と話すたび、昴はほっとしたり呆れたりしたものである。こうして昴は「普通」とは案外どうでもいいものだと多少思うようになった。  とはいえそのあとも「普通」の認識が変わらなかった事柄はある。  たとえばこれだ。年上のおっさんにつきまとわれたり、触られたりするのは男子の「普通」ではない。  あおむけになってみつめていると、ふいに天井の模様が動き出したような気がして、昴は目を閉じる。心にひっかかっているものの中身は見当がついている。それは長いあいだ――そう、十代のころから考えるのを避けていたことだ。公園やコンビニで声をかけられたり、満員電車で触られたりするようになってから、ずっと。  満員電車といえば、いちばん最初に昴が出会った痴漢は女だった――少なくとも昴は相手がスカートを履いていたのを記憶している。しかしそれ以外に遭遇した輩は例外なく男だった。たいていは年上のおっさんだ。  、と思うことは何度かあった。どうして自分は男に目をつけられるのか。  たしかに昴は女性というものをすこし怖い生き物だと思っているし、山川や相原のように四六時中「彼女が欲しい」とぼやいたこともない。というか、彼女が欲しいと思ったことがない。  もしかしたらそんな自分をあの連中は見透かしていたのだろうか。  自分はあのおっさんたちと同じなんだろうか。  昴の思考はさらに核心へ近づいた。  昨日の夜、たしかに昴はすこし酔っていたし、すこし興奮していた。だからといって横で寝ている同居人にあんなことをするのは普通ではない。いや、神里が本当に眠っていたのかも昴にはよくわからない。なぜならあのとき神里は昴に応えたからだ。  うーん。わからない。  昴の思考はストップした。  それとも――あんなものなのだろうか。人間というのは。  まあ、考えてみれば、昴が妙に神里を意識するようになったのは昨日今日のことでもない。いつごろからだったっけ? 昨日と同じように元住人が集まって飲み会をしたとき、誰かが昴と神里をさして「ほとんどカップルだ」とかそんなことをいった、あの頃からか?  考えるのが面倒になってきて、昴はソファの上に起き上がる。  まあいいか。いや、よくないかもしれないが。  いや、そもそも「いい」とか「よくない」とは、いったい何が?  だいたい神里は覚えていないのだし(少なくとも今朝の様子だと)今はここにいないし、自分は暇だ。  暇なのがよくないのだ。ゲーム――いや、パソコンはどこだ。  昴はノートパソコンを開くと「賃貸」と検索をかけた。すぐにずらずらと賃貸物件サイトがヒットする。ひとつをクリックすると、沿線や建物タイプ、こだわり条件のチェックボックスが並んだ。昴は真剣な顔つきで組み合わせを考え始めた。  数日して神里が帰宅した夜には、昴はすっかり住宅に関する種々のインターネットサイトに精通していた。  もともと凝り性のうえ、ふと興味を抱いて中古マンションやリノベーションについてもサーチをはじめてしまったので、昴の盆休みはこれで完了したようなものだ。 「神里、面白い物件がある」  帰省土産を押しのけるような勢いで神里にみせたのは、奇妙な間取りの物件ばかり集めたサイトだ。神里は汗を拭き、コーラを飲み干し、ソファにどっかり座って、それから画面をみた。 「ん? ここあそこじゃん」  カラフルな建物外観をみたとたん、狙いどおり神里は食いついてきた。 「隣の駅からみえる積み木みたいなマンションだろ? こんなところに載せられてんのか」 「中も変わってるらしい」  昴は間取り図を指さす。風呂がLDKのど真ん中にあるという常識から外れた間取りで、かぎ状に曲がった細長い廊下がその他の部屋をつないでいる。 「いったいどうなってんのこの建物」 「さあ」 「しかもこんな値段すんのか。ねえな。こんな賃貸はない」  神里は呆れた声をあげつつも、昴の横に座って「もっと見せろ」と手を出した。 「いいけどこのサイト、変な間取りしか載ってないぞ」 「なんでそんなもん見てるんだ」 「暇だったからなんとなく」  最初は呆れていたくせに、神里もすぐに珍妙な間取りをいくつも眺めてはあれこれ論評しはじめた。こんな部屋には絶対に住まないと思っているからこその論評である。 「こんな妙な間取りだと部屋割りどうすんだよ。マンガ喫茶の個室みたいじゃん。あそっか、ひとつは俺の録音部屋にしてもうひとつは昴のゲーム部屋にすればいいのか」 「どこで寝るんだ」 「このでっかいLDKで寝るしかない。うん、やっぱりここはないな」 「それいうならこのサイトに載ってんのぜんぶない」  昴は神里の手からマウスを奪った。指が触れあって、一瞬どきっとした。 「まあ、そのうち不動産屋に行かないとな」  神里はリュックのファスナーをあけ、瓶詰をふたつとワインの瓶を取り出した。 「それも土産?」 「そこにあるのは空港で買ったやつ、こっちは親がくれたやつ。せっかくだから飲んじまうか」  神里が立ちあがってキッチンへ行く。急に家が生気を取り戻したような気がする。戻って来た神里はガラスコップをふたつと皿と箸を持っている。ダイニハウスにはワイングラスなんて気の利いたものはない。昴はテレビをつけ、チャンネルを適当に変えた。 「あ、その映画」神里が止めた。 「これ?」ちょうどタイトルロールが出た。 「実家で母親と妹がずうっと語ってたやつ」 「おまえの家族、みんな映画が好きなんだな」  ワインの栓はコルクではなく、ひねるだけでいいやつだった。昴はコップに遠慮なく注ぐ。瓶詰のひとつはウニ、もうひとつはオリーブオイル漬けにつけたチーズだ。 「おかえり」  コップをあげて何気なくいうと、神里は一瞬きょとんとした目つきになって、それから自分もコップをあげた。 「ただいま」

ともだちにシェアしよう!