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再インストール(1)

「以上ですね。空いた段ボールは回収できますんで、ホームページから希望の日付を申し込んでください」 「どうも、お疲れさまでした」  引越屋のおじさんと神里のやりとりを背中で聞きながら、昴は新居のキッチンに足を踏み入れる。開け放した窓とドアから涼しい風が流れこむ。とっくにエアコンが不要な季節になって、今日は晴天。じつに引越日和である。  転居先は二階建て、長屋スタイルの賃貸だ。ダイニハウスよりはましとはいえ築年数はかなりのもので、外壁にはりめぐらされた白い羽目板はところどころ塗料が剥げかけているし、他のアパートとはすこし雰囲気がちがう。玄関ドアをあけると靴脱ぎのすぐ先に階段、左手にLDKの入口があって、短い廊下の奥はトイレと風呂場。二階は玄関側にベランダつきの二部屋、反対側にもう一部屋ある3LDKである。  一戸建てのように中に階段がある二階建て長屋はメゾネットタイプと呼ばれるらしい。引越にあたって不動産屋のウェブサイトを検索しまくったおかげで、昴は新しい知識を手に入れている。  ダイニハウスに入ったときはまだ学生で、荷物も宅急便で送る程度しかなかったから、昴にとって今回がはじめての本格的な引越体験である。はじめての物事は緊張するし、準備が必要だ――というわけで、昴はネットで引越にまつわるあれこれを調べまくった。なにしろ昴は予想外の物事が嫌いだ。だが、あらかじめ手順をしっかり考えておけば予期できない物事に出くわしても(たぶん)落ち着いて対処できる。  というわけで、転居先が決まってからというもの、昴は間取り図をじっくり眺め、神里と部屋割りについて議論し、家電や家具の配置、梱包と開梱の順序も考え、これらをすべて表計算ソフトに入力した。職場ではありとあらゆる文書を表計算ソフトで作ろうとする上司に頭に来る昴だが、家電や家具の配置図を手持ちのツールで作成しようと思ったとき、表計算のマス目が便利なことは否めない。  図面によるとLDKは十五畳近くあるはずだが、キッチンスペースは細長く、さほど広く感じられない。前の家が広すぎたのだから、東京の住宅事情ではこのくらいが普通なのだが、昴には違和感がある。しかしコンロの横のスペースにはダイニハウスから持ってきたレンジ台兼食器棚と冷蔵庫がパズルのようにきっちり嵌った。計算通りだったので昴はしごく満足する。考えてみると前の家の台所は無駄な隙間が多かった。  シンクの上下にある棚を雑巾で拭き、段ボールから調理器具や鍋、食器を取り出すと、これもパズルのように並べていく。それほど数があるわけでもないので、まもなくすべて棚の中に納まった。冷蔵庫に調味料のたぐいを入れ、保存食のたぐいは箱にいれたままにしておく。  バラした段ボールの上に立ち、昴はキッチンを睥睨した。台所用洗剤やシンクのゴミ受け用ネットは前の家の使い残しを持ってきたが、皿を洗うスポンジは捨ててしまった。ラップやコーヒーフィルターも見当たらないし、今度のシンクには前の家にあったようなスポンジ受けがついていない。あとで必要なものを買いにいかなければならない。  リビングをのぞくと神里がテレビとゲーム機をセットしているところだった。大きな家具は引越業者が据え付けてくれたから、共有場所の片づけはすぐに終わりそうだ。洗面所や風呂場は神里の役割になっていたから、昴は二階に上がった。時刻は午後一時半。  引越で散らかったままの状態で会社に行くのが嫌だったから、昴は完璧を期した。金曜と月曜に有給をとったのである。十一月三日の火曜は文化の日で祝日だから、なんと五連休が完成するのだ。引越のトラックは金曜の午前便を頼んだのだが、近場の移動なので大して時間もかかなかった。五連休など必要なかったかもしれない。神里の方はというと月曜は会社があるらしい。  階段は途中で曲がっている。二階にあがってすぐ前のドアが昴の部屋で、その隣のドアはトイレ、さらに隣のドアは神里の部屋だ。トイレ以外のドアは開けっ放しだったので、昴は何気なく神里の部屋をのぞいた。段ボールの山は昴の部屋より高い気がする。趣味の録音機材のたぐいがたくさんあるのだ。  部屋割りを決めるとき、大きめのクロゼットがある部屋を昴と神里それぞれで使うことにして、半間の押し入れしかない和室はあけておくことにした。昴の部屋にはベランダがないが、そのかわり二方向に窓がある。空き部屋からベランダに出ることができるから、洗濯物の干場には困らない。  男二人の暮らしとしては十分な広さのはずだが、前の家よりは狭かった。そもそも前の家が広すぎたのだ。昴は自室のドアの前で神里の部屋をふりかえった。  ずいぶん、近いような気がする。  何はさておき、昴は自室の段ボールにとりかかった。中くらいの段ボールにはパソコンその他の電化製品、小さめの段ボールにはゲームソフトや本、捨ててはまずそうな書類のたぐい、それと……昴は白い箱をベッドの下に押しやった。いちばん大きい段ボールは軽く、中身は衣類だ。クロゼットに通勤用のスーツを吊るしていると、階段を上がってくる足音が聞こえた。 「いつ駅に着くって? ああ、うん、迎えに行く。いや、そういうのいいから――は? いやそれもいい。早く着いたら待ってて」  クロゼットを閉じてふりむくと、神里はスマホを耳から離したところだった。 「悪ぃ、うちの親もうすぐ駅につくらしいから、行ってくる」 「あ、うん」  神里の実家は北海道である。なんでも以前から夫婦水入らずの関東旅行を計画していたとかで、東京観光のついでに息子の引越見物に来るというのだ。神里は「こんなときに冷やかしに来るなよなぁ」とぼやいていたが、昴はべつにかまわないと思った。会うのも話すのも初めてだが、挨拶くらいは何とかなるだろう。神里が家族の話をよくするせいで、昴にはまったくの他人という気もしないのだった。 「うるさいかもしれないけど、大目にみてくれ」 「いいから行って来いよ」  昴が手を振ると神里は首をのばし、昴の部屋をちらっとのぞいて「片付けるの早いな」といった。思い出したように「そうそう、ガス屋も来た。お湯もう出るから」 「わかった」  広い背中が階段に消え、玄関のドアが音を立てて閉まった。  昴はベッドに布団を広げ、窓にカーテンをかけた。前の家と同じ、青系のチェック柄のカーテンだ。壁が白いせいか天井が高く見える。あるいは実際に高いのかもしれない。  この長屋には「ダグウッドハウス」という名前がついている。ここに案内した不動産屋は道路に面したところにハナミズキの木がずらっと植えられているからだと説明した。が、ハナミズキは英語で「ドッグウッド」だ。名づけのどこかの段階で誰かが何かを間違えたのではないかと昴は思う。しかし意味がわからなくても犬の木よりはダグウッドの方が語呂もいいし、響きもかっこいいから、気にしないことにする。  築年数はあるものの日当たりもよく、広さのわりに家賃は安い。しかしいいことばかりでもなく、最寄り駅からはかなり遠く、自転車がないと通勤や買い物が億劫になる距離である。一方で今度の最寄り駅は前の家よりも職場に近く、急行が止まるから、通勤時間はすこし短くなるかもしれない。ここに決めるまでにはいろいろあったが、最終的な落としどころとしては悪くない物件だった。  前の家よりも静かに感じられるのは幹線道路から遠いせいだろうか。とりあえず、休みのあいだに自転車を買わなくては。  そのまましばらく昴は片付けに没頭していたが、外からどやどやと人の声がきこえて我に返った。 「ここか? おう、広いじゃないか。白いなぁ」 「まあ、庭があるじゃない。あの木は何?」  あわてて階段を降りると、玄関に立っていたのは凸凹コンビだった。いや、こんな表現は失礼なのだろうが、神里の父親らしき人は神里と同じくらい背が高く、母親らしき人とは三十センチ……いやもっと差があったのだ。 「どうも、えっと、昴君?」 「こんにちは。お邪魔しますねえ」 「はじめまして。栖原昴です」 「うちの子がずっとお世話になっててすみません」  玄関先で互いに頭をひょこひょこさせ、微妙な挨拶に時間をとること三十秒。神里がいつもより早口で「とりあえずあがって、狭いだろ。荷物はそこに置いていいから」といい、夫婦ふたりはそそくさと靴を脱ぐ。 「とりあえずここがリビングね」  神里は「とりあえず」を連呼している。夫婦はリビングのソファの周囲を行ったり来たりしている。ここはお茶でも入れるべきなのかと昴は思ったが、冷蔵庫に入っているのはそれぞれ飲みかけのペットボトルだけだ。 「コーヒーでもどうですか?」  昴はキッチンから首をのばして誰にともなくいう。 「はい、まあ、ありがとうございます。これ、お土産ね」 「お、バターサンド?」  神里が答えた。彼が帰省のたびに持って帰るお菓子は昴の好物でもある。  昴はコーヒーメーカーに人数分の粉をセットしたのはいいが、コップが足りなかった。というのも引越前に、以前ダイニハウスに住んでいた連中が残した古い食器を処分してしまったからだ。湯呑はあるが、これでコーヒーを出すのはいかがなものか。昴は少し迷い、結局紙コップにコーヒーを注いだ。 「他の部屋、見てもいいか?」神里の父親がにこにこしながらたずねる。髪は薄めで腹がすこし出ているが、雰囲気はすぐそばに立つ神里にそっくりだ。神里は顔をしかめる。 「まだ片付いてないって」 「ちょっとだけ。いいだろ?」 「なんで見たがるわけ? あ、そっちはみてもいいよ」神里は洗面所の方を指さす。「台所も」 「僕の部屋はいいですよ」と昴は口を出す。「だいたい片付いたんで」 「もう?」神里が呆れた声をあげる。  結局四人でぞろぞろ並び「お家拝見」ツアーとあいなった。両親にはさまれた神里はいつもより少し子供っぽくみえたし、居心地も悪そうだったが、昴はだんだん慣れてきた。  昴には母親という存在が身近にいた記憶がない。そのせいかこの夫婦が神里の親なのだと思うと、親とは二人そろうものなんだなぁ、という妙な感慨を覚える。  夫婦は明日浅草の方をまわって、それから日光に行くという。今晩のホテルのチェックインもこれからだというので、夕食にはすこし早い時間だったがみんなで焼肉屋に行くことにした。神里は父親のボストンバッグを持ち、昴は母親のキャリーケースを引く。太陽が背中側にあって、道に四つの影がならぶと、四人家族が歩いているようにみえる。

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