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再インストール(2)
じわっと油の染み出したカルビを摺りゴマ入りのタレにつけ、白いご飯と一緒に口に入れる。脂身のほんのりした甘味と肉の旨味にゴマの香りが鼻をくすぐる。白飯に絡んだタレの味も申し分ない。
ビールジョッキを持ち上げながら、転居先の駅近にも手ごろな焼肉屋があってよかったと神里は思っているところだ。テーブルの中央には七輪、隣の席には昴、そして向かいの席には神里の両親が座っている。神里の正面は母親で、昴の正面は父親。そして十分ほど前から、昴と父親はお笑い芸人について語り合っている。
「それなら昴君、キツネ麺はどう? あのツッコミがいいと思うんだよねえ」
「僕はキツネ麺はボケの方が好きなんですよ。独特の雰囲気があると思ってて、ほらあの、カミナリ様のネタとか」
「ああ、あれね。そうか昴君はボケの方が好きか」
「好きっていうか、キツネ麺のふたりはボケのあのテンポにツッコミがあわせられるのがすごいと思ってみてますね」
「なるほど、なるほどね」
神里の父親は箸を片手に目尻に皺を寄せて笑っている。父親の隣で石焼ビビンバを混ぜていた母親が小声でいった。
「昴さんってお笑いに詳しいのね」
「ああ、うん……そうね」
「お父さんがあんなに嬉しそうに話してるの初めて見た。毎日タブレットでいろいろみてるけど、私は相手にならないから喜んでる」
「俺もけっこう意外」
意外どころか、神里にとっては予想外の展開だった。みんなで焼肉屋へ行くことになって、最初は気まずいのではないかと思ったのである。十年以上同じ家で暮らしていれば昴が初対面の人間と簡単に打ち解けるタイプではないことくらい承知している。
しかし神里の両親、特に父親は遠慮がないというか、一見やわらかくみえるのに押しが強いというか、まぁまぁとかいいながら自分がやりたい方向に物事を持っていくタイプの人間で、息子の自分もなかなか強く出れない。そして母親は母親で、息子の長年の同居人に興味津々なのだから、いつもはともかく今日は父親に好きなようにさせていた。
母親が昴に興味津々だ、という点については神里にもたぶん責任がある。何しろここ数年は帰省のたびに昴の話をしていたような気がするのだ。
というわけではじまった焼肉会は、最初こそなんとなくぎこちない雰囲気があったものの、昴のビールジョッキが半分以上空いたあたりから様子が変わった。神里の父親がお気に入りの芸人のネタを何気なくもらしたところに、昴が秒でつっこんだのがきっかけだ。
で、それから二人は神里と母親を置き去りにしたままお笑いオタクの会話を繰り広げているのだった。といっても主に喋っているのは父親で、昴はその振りに鋭い(?)論評を返す、といった調子である。
「お父さん、お話もいいけど食べてる?」
「うんうん、食べてる。で、トン電マンだけどね……」
昴と二人で焼肉に行く時は、昴の方が焼肉奉行をやると決まっている。焼き網に肉を並べるやりかたに細かいこだわりのある男なのだ。しかし今日は神里の母親もいるせいだろう、口はともかく昴の動作の方はいまだにすこしぎこちない。目がチラチラと焼き網の上を泳いでいる。
神里は肉の皿を回転し、肉用トングを昴の方に向けてやった。父親の話にフンフンとうなずきながら、昴はトングをもちあげて肉の配置を調整している。じゅわっと肉汁がしたたって、炭の赤い燠から炎がぼうっと立ち上がる。
母親がその様子を目を細めて眺めていることに、神里は気づかなかった。注文した石焼ビビンバが到着したからだ。
「よさそうなところが借りられてよかったね」
ビビンバをしゃもじで混ぜていると、母親が小声でいった。
「そうだね。父さんに保証人頼むことになったけど、二人ともまっとうなサラリーマンだし、昴とは慣れてるから」
大丈夫だ、と続けるつもりだったのだが、母親は神里の方へすこし身を乗り出す。
「困ったことがあったら相談しなさいよ。最近、世の中はだいぶん変わったけど、お母さんは味方だからね。仲良くやるのよ」
「ああ……うん? ありがとう」
いったい何の話をしているのか。神里はきょとんとしながらも、とりあえずうなずいておいた。大学を卒業したあと、実家に援助を頼むような事態になったことは一度もない。彼女は何か勘違いしているのではないか。それともこれが親心というものなのだろうか。
「おまえの親父さん、オタクだなぁ」
たらふく食べてビールジョッキを何杯かあけ、焼肉屋を出てもまだ時刻は七時前である。改札に両親を見送ってすぐ、昴がしみじみした口調でいったので、神里は吹き出しそうになった。
「昴、おまえがいうなよ」
「僕はにわかだ。親父さんは本物だ。さすが親子」
「なんだって?」
「おまえもオタクじゃないか」
オタクといえばそうかもしれない――神里は俗にいう音鉄のはしくれだが、自分ではそこまでオタクだとは思っていない。同好の士に出会うことがめったにないジャンルだからか、昴以外の他人には蘊蓄めいたことを話した記憶もない。
昴は駅から短い渡り廊下でつながるショッピングモールを指さして「自転車屋、みようぜ」という。
「ああ」
「駐輪場もみつけないと」
「ああ」
東京見物ついでにいらぬ引越見物にきた両親がいなくなったので、神里はほっとしていた。家族に会えるのはいいものだが、昴がいるせいか、気恥ずかしいような気分だった。引越がスムーズに終わったことにもほっとしていた。自分の部屋にはまだ段ボールが積んであるが、寝場所は確保してあるから、神里にとっては終わったも同然である。共同生活も十年を超えると、引越という一大イベントも楽にこなせるのだな、と素朴に感心してもいる。
まあこれも、相手の好みや癖を熟知しているせいだろう。昴は例によって表計算ソフトで完璧なToDoリストを作成していた。
ショッピングモールの一階端にあるサイクリングショップは品ぞろえがよかった。買い物と通勤だから特価のママチャリでいいかと思いつつも、サイクリングが楽しそうな電動アシストつきにも目がいく。
「いろいろあるな」店内を一周して戻ってきた昴がいった。
「今日買って帰るか?」と神里はたずねる。
「今日はやめる。飲んでるし」
「そうだな」
「じゃなくて、台所のスポンジがないんだ。ラップとか」
「スーパー行くか」
「ホムセンって近くにないんだっけ」
神里はスマホのマップをながめた。
「ちょっと離れたところにあるらしい。チャリなら近いな」
「じゃ、明日チャリ買って行く」
「よし」
やるべきことの手順がするっと決まるのはいいものである。こういうのをツーカーというのだろうか、部屋を決める時も多少時間はかかったが、意見が分かれて揉めるということはなかった。
そういえばいざ契約審査というときになって、多少ひっかかるやりとりがあった。契約者は神里にして、昴は同居人として申込したのだが、不動産屋の女性は並んで座った二人をしげしげとみて、小さな声でたずねてきたのだ。
「あの、おふたりは……ご友人ですか?」
「ええ。これまでもずっと一緒に住んでて」
「どのくらい?」
「学生の時からなんで、十年以上ですね」
「それは長いですね。だからそんなに……あの、入居時の審査なんですが、お二人ともお仕事をお持ちですし、問題ないと思いますが」
他の客に聞こえないように気を使ってか、女性は声をひくめた。
「実は単なる友人同士のシェアよりも、内縁関係というか、最近あちこちで導入されているパートナーシップとか、そういうご関係の方がこの家主さんには通りやすいんですよ。要はその、単なる知り合いだと突然ひとりいなくなって家賃滞納につながるとか、そういうこともあるので……だからもしそういうご関係だったら、そのままおっしゃっていただいた方が」
神里は昴と顔をみあわせた。女性は念を押すようにいった。
「十年も同居してたんですよね?」
「まあ、そうですけど」
そしてたしかに、最近の昴との関係はどうも――神里にもよくわからないところではあるのだが。
「なるほど、ではもし家主さんの方で何かいってこられたら、そういう方向でお話しておきますね」
結果的に審査は何の問題もなく、不動産屋の女性がふたりの関係について家主に何かいったのかどうか、神里は知らない。
その日契約をすませて不動産屋を出たあと、神里は今の出来事を笑い話のネタにするべきか迷った。正直なところ、いちばん驚いたのは昴とカップルだと思われることに違和感がない自分自身に対してだった。昴は何かいいたげな表情で神里をみたが、結局今日の引越まで、この出来事については一度も話さなかった。
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