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再インストール(3)

 駅から閑静な住宅街を抜けてダグウッドハウスに戻ると、神里はドアが半開きになっている昴の部屋を半目で眺めて「俺もうすこし片づける」というなり、中にこもってしまった。昴はリビングでテレビをつけた。  やっぱりここは前の家より静かだと思う。壁を隔てた隣には住人がいるはずだが、一戸建てのように独立した雰囲気がある。昴は漫然とテレビのチャンネルを弄っていた。天井の方から時々物音がきこえる。神里の足音だろう。  昴は立ち上がり、風呂場に行った。いつもの癖で、バスマットだのタオルかけだのの位置を几帳面に調整し、風呂場全体を洗ってから浴槽に湯を貯める。水圧はあまり強くなかった。何分かかるだろうか。  階段をあがったが、神里の部屋のドアは閉まっている。空の段ボールがふたつ、崩さないままドアの前に積んであった。  昴は自分の部屋に入るとベッドの下に押しこんでいた箱をひっぱりだした。  引越は大きな変化だが、今年の夏以降、昴自身が自覚している、みえない変化がひとつある。神里は気づいていないだろう。家をシェアしていても平日はふたりとも会社があって、帰宅が遅くなることもある。エアコンが壊れたあの数日をのぞいて、引越までお互いの部屋に入ることもなかった。だから以降、昴が夜中に何をしていたかなど、神里が知るはずはない。  あの晩というのは、ダイニハウスのリビングで神里と映画をみた、あの晩である。  その映画の出来自体を昴はあまりいいと思わなかった。ミステリとしても恋愛映画としても中途半端すぎるというのが正直な感想だった。そのリベンジというのでもなかったが、昴はそのあと「あなたが好きかもしれない」おすすめにあがる同カテゴリの映画やドラマを自分のパソコンで何本か見た。  神里の意見とはちがい、昴は自分のことをオタクだと思っていない。しかし凝り性なのは自覚している。気になったことは自分のなかで納得いくまで調べずにはいられないのだ。ゲイ・BL・LGBT等々とカテゴライズされたもの検索していると、広告に男同士が絡みあうマンガのコマがあがるようになった。女性向けと銘打った男同士の恋愛マンガにはどぎついセックスシーンが含まれていて、これは昴がはじめて出会う世界だった。正直、世の中の女性に対する見え方が変わりそうな気がしたものである。しかしそのあとに発見した実写のゲイポルノよりもこっちのほうが昴の好みにはあって、きわめつけが音声のみのBLドラマというジャンルだった。で、そのあと――  昴は長いあいだ、自分はあまり性欲を感じない人間だと思っていた。電車で迷惑行為をはたらいたり、粘っこい目つきでみてくる連中のことを内心馬鹿にしていたところもある。  しかしいま、昴の前にはこの箱がある。  昴は中身を神妙な目つきで眺めた。ネット通販で買ったコンドームとローション、洗浄用の道具、球体がつらなった卑猥なグッズ。実は何度か使用済みだ。  神里は昴がこんなものを持っているなど知らないだろう。あの晩が昴の背中を押したことも。  この家の間取りでは、神里の部屋と昴の部屋は壁一枚隔てているだけだ。昴は神里の部屋のドアが閉まっているのをもう一度たしかめて、その必要もないのに足音をしのばせ、一階に降りた。  背中にずっしり重みがかかっている。半分覚醒した頭のどこかでこれは嫌な夢の兆候だ、と昴は思う。ところが次に感じたのは体がすこし持ち上げられるような感覚で、同時に太腿と腰をホールドされても不快どころか気持ちがよかった。  誰かの声がきこえる。  ああ、これはあれだ――と半分寝ぼけた頭で昴は思う。ライのせりふだ。今のところ昴が最も出来がいいと思っているBLドラマシリーズの登場人物。  昴は寝返りをうち、うつ伏せになる。股間をシーツに押しつけながら、ボクサーパンツに手を入れる。ライの声だと思っていたものが別の人間のものに聞こえてくる。もっと聞き馴染みのある声だ。 (昴……)  そのとたんはっきり目が覚めて、昴は引越二日目の朝を迎えていた。壁の向こうで物音がきこえた。ダイニハウスではずっと部屋が余っていたから、朝起きても隣の部屋の物音を聞くことはなかった。カーテンをあけると外は今日も晴れ。そうだ、今日は自転車を買いに行くのだった。  着替えて階段を降りると、神里が濡れ髪で風呂場から出てきたところだった。家が変わっても習慣は変わらない。神里は朝シャワーで昴は夜に入浴するのだ。  キッチンでコーヒーメーカーをセットしていると神里が鼻歌とともにあらわれた。 「昴、目玉焼き食う?」 「食う」  しまった、ご飯がなかった。神里はぶつぶついいながらトースターに食パンをほうりこんでいる。そういえば、前に神里が作ってくれたホットサンドがうまかったと昴は思い出すが、リクエストは次にしようと思い直す。朝飯のたび、家事分担表に神里のポイントばかり増えていくのはよろしくない。  部屋の壁は白くて、前の家より広く感じた。昴はくずした目玉焼きの黄身をトーストですくって食べる。神里はトーストにマヨネーズと辛子を塗り、目玉焼きをのせてかぶりついている。なんとなくその顔をみて、こいつ口がでかいよな、と昴は思う。そのとたんべつの想像が頭をよぎる。唇が大きく動いて―― 「昴、聞いてたか?」  神里の声に意識が戻る。 「ああ、うん」 「聞いてなかっただろ。自転車とホムセン、いつ行く?」 「いつでもいいよ。おまえは片付けすんだの?」  神里は眉をあげて「もうちょっと」と答える。 「終わってないのか」 「いや昨日は昔の音源みつけてパソコンに取り込んだりしてたんで」 「そんなのいつでもいいだろ。僕は段ボール片づけたい」 「ああいうのは思いついた時にやんないとやらないんだって」  神里は子供のような口調で文句をいったが、食べ終わると二階にあがり、空いた段ボールをドアの外へ出した。  駅までのルートは昨日とはちがう道を試そう。そう神里がいうので細い脇道に入ってみたら、いつのまにか駅とは正反対の方向へ進んでいて、かなり遠回りになった。そのかわりコンビニと野菜の無人販売所とクリーニング屋を発見した。やっと駅の近くに出ると、昨日目星をつけていた自転車を買った。ありきたりのママチャリだが、昴は黒、神里は銀色だ。  自転車に乗るのは久しぶりだった。ダイニハウスにはずっと以前、共有の自転車があった。人が減るにつれて使われなくなったうえ、雨風にさらされてぼろぼろになったので何年か前に処分してしまった。  ホームセンターは踏切を超えた先にあるという。神里が先に行ったので、昴は背中を見ながらペダルをこぐ。新しい自転車のサドルは尻に馴染まず、堅かった。

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